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News Scrap(ニュース記事コレクション)
ツール2001 新聞見出しコレクション
2001年フランスの大衆紙・ローカル新より抜粋・和訳
「マドレーヌ峠の頂上。。ウルリッヒとは対照的なアームストロング。顔はひきつり、しかめ面をしている。力強いウルリッヒのペダリングとは対照的に、アームストロングの上半身は安定せず、揺れている。彼らしくない。。。。
しかし、その仮面がやがて剥れる時がきた。ブールドワザン(ラルプの麓町)にさしかかった時、アームストロングはルビエラを従えて、飛び出した。今やからだはシャンとして、力強くストロークを重ねていく。アームストロングとルビエラが遂にはじけたのだ。」
また、同じような見出しをつけた同日のレキップ紙:
「あれ(マドレーヌ峠付近でクラックしたかのように装ったこと)は、もちろん大ボラさ。今や自転車競技は、誰もが全てを見ることができる。TVのせいでね。だから、時に僕らは一杯くわせなくてはいけない。
そして、今日、僕らはその<仕事>をやり遂げたってわけさ。僕があたかもクラックしているかのように見せかけて、テレコムを働かせたのさ。これは、スタート地点から企てていたわけじゃない。
マドレーヌにさしかかってから、賭けにでることにして、そして僕はその賭けに勝った、そういうことだ。」
更に、レキップ紙では、こんな写真も紹介している。アームストロングの体調が本当に悪いと勘違いしたライセカ(EUS)が、ランスの背中に手をやって励ましている写真。アームストロングの演技は、そのくらい迫真に迫っていたということだろう。
だまされてしまった人のいいライセカと、勝つための執念に燃え、トリックも辞さないアームストロングの2人が対照的な写真だ。
フランスの自転車チームが減少傾向にある。2000年の10チームから、2001年は9チームへ。フランスではスポンサー離れもあり、チームの数が減少化し、集約化の方向に向かっている。それとは対照的な例として引き合いに出しているのは、スペインの名門レアル・マドリード(サッカー)。
5億フランをユベントスに支払ってまでもジダンを獲得しようとするこの財力。レアルの予算規模は、平均的な自転車チーム17チーム分にも相当するという。
ヴエルタ2001 関連記事 - レア物記事
9/25/2001: スペインのアー・エス新聞(FEF)より和訳
| セビーヤの休息日は、涙を流しながらパエリヤ作り!! 9月24日の休息日。ケルメのビンセンテ・ベルダ監督は、ケルメの選手、メカニック、スタッフ全員を、自宅に招いた。 自宅は、丁度ヴエルタがさしかかっているバレンシア地方(詳しくはアリカンテ地方のコセンタイナという村)にある。もちろん、現在ヴエルタで総合トップのオスカー・セビーヤも招待客のひとり。 招待客ではあるものの、彼自身、ベルダ監督のお母さんと義母が作るパエリヤのお手伝いもした。パエリヤの煙に涙を流しながら、パエリヤ作りに奮闘。彼は、ベルダ監督の両母親からもマスコットのように可愛がられた。(写真) ケルメチームのみんなにとっては、この2回目の休息日は快適そのものだった。ベルダ監督の自宅でのパエリヤパーティー。グラン・ツールの最中の光景とは思えない。彼らのために腕を振るったのは、監督のお母さんと義母の2人。 セビーヤの役目は、パエリヤにお米を入れる係り。この日のパエリヤ作りの最大のクライマックスだ。お母さんたちの要望で黄金ジャージを着たセビーヤのこの笑顔。この日は、パエリヤの煙で目から涙を流しながらも、笑みが輝いていた。しかし、もちろん、勝負のことは頭を離れない。この日のパーティーの直前も、こんな風に語っていた。 「最終日のITTで負けることが頭をよぎって、苛立つこともある。悪夢になって出てくることもあるんだ。でも、今回負けたとしても、たいしたことじゃない。ツールの時と同じで、今回僕は、特にこれといった目標も、プレッシャーもなくヴエルタに参加した。 もちろん、グラン・ツールで勝てれば最高。でも負けたとしても、ダメージはない。今は成熟する過程の一場面として走っているわけだから。」 | |
親愛なるマルコ・パンターニ様
7/6/2001: フランスの新聞「ル・フィガロ」紙より和訳
親愛なるマルコ・パンターニ様
ランス・アームストロングが、ラルプデュエズ序盤のつづれ折りを走破し始めた時、まず僕が思い描いたのは、君のことだった。バンダナで頭を覆い、ダンシングで登りながら、手はハンドル下方を握り、例のディアボロおじさんに励まされながら行く、そんな君のことを。
ディアボロおじさんはといえば、とんがった三つ又の矛をふりかざし、そのとんがり具合は、君の耳によく似てる。そして、ラルプデュエズといったら、マルコ、君そのものだ。君の名は、どこまでも続くこの舗装道路のあちこちに、白い文字で刻まれてる。
7月7日(2001年)、プロトンが君抜きでスタートし、プロローグや、山岳へと向かっていったけど、そんな中、マスコミの一部では、「マルコがいなくてもツールは平気」、と書きたてる奴がいた。こんなのは真っ赤な嘘じゃないか?マルコ!つづら折りの道に君がいないのは寂しいよ。
クイペル出現以来、坂の両端を占拠しているオランダ・ファンにとっても、君がいないとつまらないはずさ。そう、僕たち、ひとりひとりにとって、君は欠かせない存在。君なしのツールなんて。。(注:クイペルは72年のミュンヘンオリンピックRR金メダルに輝いたオランダが誇るサイクリスト)
僕たちは30年待ったんだ。1958年、チャーリー・ゴールがシャルトルーズで真価を発揮して以来30年も。そう、ゴールは、「クライマーだってツールで優勝できる」ってことを証明してくれた。他にも、確かにルシアン・ヴァンディンプなんかのことも、頭によぎった。そう、彼も(純粋なクライマーでありながら)イエロージャージでパリに帰って来たっけ。
(注1:ゴールは、ルクセンブルク出身のクライマー。58年ツールで優勝した。注2:ルシアン・ヴァンディンプ:76年ツール優勝のベルギー人。)
でも、「チャーリー・ゴールの再来だ!」って僕たちが声を揃えて叫んだのは、君がラルプデュエズで猛チャージをかけた時だった。「我々の背中から、羽が消えた」って言った人がいたけど、君が風のように舞い立つ時、マルコ、僕たちは、もう一度羽を授かることができるんだよ。
マルコ、人生は確かにずっしりと重いよ。ユーロディズニーに行くために家計を切りつめているような生活に、押しつぶされそう。僕たちは、自分たちの町に閉じ込められ、建物に押し込められ、TVの前で囚われの身になって、網にからまり、格子の中に入れられ、まだらのアスファルトの奴隷になってる。
そんな僕たちに必要なもの、それは君が そのやり方で僕たちに大事なことを思い起こさせてくれることなんだ。「人は重力に逆らって、コバルトブルーの空にはばたくことができるんだ」ってことを。
戻っておいでよ、パンターニ。君無しでは、次の選手の到来まで、更にもう30年、僕らは待たなくちゃいけなくなっちゃうよ。いや、もしかしたら、永遠に待ち続けなくてはいけないかもしれないんだ。
エスカルティンが嘆き、インドゥラインが提議した
2/17 & 19/2001: スペインの大衆紙 エル・パイスより和訳
* 事故についてミゲル・インドゥラインが提起した。
事故について問われたインドゥライン、「もしもハビエルが息を吹き返したら、次には生きている中でも、最も辛いような状況が彼を待ちうけていることだろう。」そんな風に語った。
彼はリカルドの葬儀にも出席し、道路で自動車とサイクリストが共存できないという事実を嘆いた。そして、「もしもサッカー競技場や他のスポーツ競技場を作る余裕があるのなら、自転車競技が脅かされないようにする手段を講じるべきではないか」そんな風にも提起した。
(注:インデゥラインは、一昨年の12月、スペインの大学の招きで、スペインでhは、かなりの数のサイクリストが年間事故で亡くなっていることを示唆しながら、自転車競技の安全性について精力的に講演を行った。)
* リカルドの葬儀でフェルナンド・エスカルティンが語った。
オチョア兄弟の故郷ベランゴでは、リカルドの葬儀がしめやかに営まれた。遺体は市庁舎の集会所を出て、自転車クラブやベランゴの学校の若いサイクリストたちが作った花道を通り、グスマンデドミンゴ教会まで運ばれた。
葬儀には、アブラハム・オラーノ、フェルナンド・エスカルティン、ロベルト・ライセカ、アルバロゴンザレス・デ・ガルデアノおよび、マノロ・サイス監督(ONC)、ホセ・ミゲル・エチャバリ監督(iBAN)らが出席した。
元ケルメでオチョア兄弟と同僚だったエスカルティンは、「後ろの方を振りかえりながら、災難が自分にも降りかかるかもしれないと考えつつトレーニングしなければならない」ことを悲しんだ。
なんと彼は、こないだの休暇をリカルトとハビエルとともに過ごしていたのだった。そして、エスカルティンはこんな風にも語った。「もしもハビエルが目を覚ましたら、きっとリカルドと一緒にあの世に行きたかった、そんな風に言うだろう。」と。
一方事故原因の方だが、オチョアの家族はどんな風にして実際に事故が起きたのか、正式な見解を受け取っていない。オチョア兄弟の3番目のアンドニは、捜査の密室性を弾劾している。
そして、15日の木曜日、一体何が起きて兄弟が事故にあったのかを公開してほしいと訴えた。アンドリは、運転手がハンドル操作を誤ったか、運転手が居眠り運転をしていたという見方をしている。
「ボルボが時速50キロで走っていて、あんな恐ろしい事故になるというのは、そういった可能性以外考えられない。」そう述べた。公式には、それらの見解は否定されたが、オチョア一家は納得できない。
一方で、運転手でマラガ大学の副学長兼ダイレクターであるセバスチャン・フェルナンデスの妻は、「夫は14時間睡眠を取っており、絶対に居眠り運転していたということはあり得ない」、と主張。ちなみに、彼は事故の際、一人きりで運転していた。
いずれにせよ、捜査をしている治安警備隊は、事故の詳しい状況について、一切家族にも公表しておらず、家族はなんとかして納得のいく説明を求めている。
ヴィランクの妻の悲痛な叫び
1/23/2001: フランスの新聞ル・モンドより和訳
(近況を尋ねられて−)ヴィランク:「叩きのめされ、立ち直りたいと思いつつも、その機会もないままにいる。エージェントが国内外の幾つかのチームと接触しているが、チームは一様に、スポーツ調停裁判所の(処分期間審議の)決定を見守る姿勢でいる。
僕に対し下されたスイスの自転車連盟ほど重い処分を受けたプロのライダーは、過去30年間いないだろう。2月1日から9ヶ月もの間出場停止だなんて。。。
僕は(裁判では)釈放された。そして、裁判の結果、フェスティナの一件は、他のチームにも関係あることだったことがわかったんだ。僕は公平さが欲しい。制裁には同意する。でも、何故僕に対する制裁だけが、こんなに重いのか?僕はもう既に十分制裁を受けた。
98年ツールから追い出され、ドーピングのシンボルになったんだ。もう十分。僕が今唯一後悔していることがあるとすれば、それは、パスカル・エルベにも、僕同様の(ドーピングを認める)告白を求めたことだ。」
(ドーピング剤の摂取により、健康への影響をどう考えるか、と聞かれて−)
ヴィランク:「もう、やってしまったことは仕方ない。後戻りはできない。両親は余り認識していないだろう。
妻がどの程度の認識なのかは、わからない。直接聞いて欲しい。どにかく今病気ではないんだから、余り考えてない。」と、そこへ、そばにいた彼の妻、ステファニーが割って入いり、以下のようにコメントした。
ステファニー:「余りそのこと(健康への害)につては考えないようにしているの。だって、未知のことだから。主人を信じているわ。麻薬ではないのだから。主人はプロのライダーとして、仕事をこなしてきただけ。
危険性は、摂取量如何で決まるのではないかしら。とにかく、この一件で感じたことは、全てがバランスを欠いているということ。誰も罪を犯していないのに、3週間にも及ぶ裁判、9ヶ月もの出場停止に始まって。
一人の人間が背負うには、余りに大き過ぎて、それはもう、自殺を考えてもおかしくない状況です。私は主人が泣いているのを何度も見かけました。
10年間、彼があらゆる犠牲を払って来たのを私は傍らで目の当たりにしてきました。新しいシーズンが始まり、他の選手が次々スタートするのを見ることは、彼には辛いこと。こんな形でキャリアを終えるなんて耐えがたいこと。彼はまだ引退する状況ではないの。今後のことは、考えたくない。」
(98年の事件以来、ヴィランクは、ケーブルTVの風刺人形劇「ギニョール」の中で、笑いの的として扱われた。そのことについて聞かれ−)
ヴィランク:「僕自体は走っていて番組は見てないから余り気に留めなかった。でも、僕の両親は、今回のことで、ずいぶんあおりを受けた。
98年9月、母が勤めていたレストランを解雇されたんだ。そして、今年になって、父が、まだ退職まであと3年あったのに、会社側から雇用契約の更新をしてもらえなかった。僕の妄想かもしれないけど、これら一連のことは、偶然ではないと思うんだ。」
(最後にヴィランクは、もしも自転車を止めることになったらどうするか、と聞かれ−)
ヴィランク:「わからない。引退後のことなんて、考えられない。(今は)僕の2人の子供の世話で時間が過ぎる状態だ。
そうやって、自転車には全く乗っていない。3ヶ月もの間、外出したのはたった1度だけ。先週Jドゥラトゥールの連中と一緒に走っただけ。。。僕の家の電話は、滅多に鳴らない。僕の所に電話してくれた、何人かのライダーたちに支えられ、そして片方の指だけで自分を支えている、そんな状況だ。
僕はファイターだけど、今はファイターとしての力が沸いてこないんだ。」
LOOK物語
7/15-21/99: フランスの雑誌ル・ヌーベル・オヴゼルヴァター誌より和訳
何故LOOKのような、性能のいい製品を生み出してきた優良企業が、数回にわたって死にかけたのか?全ては1950年代、ジャン・ベイル氏がスキーのビンディングを開発し、自社にLOOKという名をつけたことに始まる。アイディアは、素晴らしかった。ただ、一族はビジネス、マーケティングといったものにセンスがなかった。
1983年、LOOKは破産した。5千300万フランもの赤字を出したのだ。一族は、とある若き実業家に、SOSの救済を求めた。その実業家とは、当時TVで弁舌を振るっていたベルナール・タピだ。(注:彼は後にサッカーチームの運営問題で裁判の中心人物となった。)
1フランで株の66%がタピ氏に譲渡された上に、タピは容赦なく、一族を経営から切っていった。そのブルドーザー的手腕で、タピはベリル氏が開発したオートマティック・ペダルを商業化した。そして、モンドリアンの絵画からインスピレーションを受けたというロゴをデザインし、自転車チームを旗揚げした。
利益の上がったLOOKは、やがて1989年、2億6千万フランで売却された。相手先は、スイスの時計会社エベルだった。ロシニョールも名乗りをあげたが、1億フランしか出せないとして、エベルに負けた。
その後会社経営が思わしくなくなったLOOKは、カーボン製の自転車フレームの革新を進めた。
しかし、経営不振は続いた。1994年、ビンディング部門が遂にロシニョールへ6千万フランで売却される。ロシニョールは、赤字部分の引き受けはしなかったため、赤字部分は自転車部門に重くのしかかった。
4年後の1998年、赤字は膨らみ、LOOKは破産申請をした。2社が救済の名乗りをあげ、その結果、ドミニック・ベルガン氏が立てなおしを図ることになる。彼はLOOKというブランドの力を信じていた。
氏は政治的な手腕を発揮し、マーケティングを革新し、また広報に力を入れた。目玉はオートマティック・ペダルとコンポジットの高級フレームだ。
シェアをぐんぐん伸ばし、1999年には最優秀バイクの栄誉を受けることになった。
また、世界選手権のピストで6つのメダルを獲得もした。次の狙いは高級マウンテンバイク。研究開発費をつぎこむ。自転車愛好家に人気のあるヴィチューも買収した。また、ベルガン氏は、ツール・ド・フランスの観客動員数に目を光らせている。
特にオリンピックやサッカーワールドカップのない年は、ツールというやつは、世界的に、もっとも脚光を浴びるイベントだと思っている。希望はツールでLOOKが1−2ステージ優勝を飾ってくれることだ。
フェスティナ裁判終結
Nov.'2000 Issue : Procycling - フェスティナ裁判が2000年12月22日に結審された。既にお知らせした通り、ヴィランクは無罪となり、他の被告たちには、執行猶予付き判決・罰金などが下った。これを受け、12月29日には、スイス自転車連盟がヴィランクの出場停止処分(9ヶ月)を決定。ヴィランク側が この決定に不服を申し立てる可能性はあるものの、これで一応、一連のフェスティナ裁判の結論が出た。1998年に端を発した一連の出来事をまとめた記事。
フランス ブルターニュ地方のプルエで世界選が行われた8日後、同じフランスの地で、また1つの大きな自転車のイベントが行われた。しかし、主人公は、ジャージ姿からスーツと(裁判官の)ガウンという姿に取って変わられた。
フランス北部のリルの裁判所が、自転車競技の暗黒の部分を暴くために、ドアを開いたのだった。スポーツ誌記者はもちろん、ヨーロッパ中のパパラッチが、スキャンダルの臭いを嗅ぎ付けて集結した。皮肉なことに、期間もツールと同じ3週間程度。しかし、ツールと一線を画すのは、優勝者が出ないということ。
これは、ウォーターゲート裁判でも、OJシンプソン裁判でもない。しかし、裁判準備の規模を考えると、それらとさしてかけ離れたものでもない。証言の数、(スペイン語やベルギー言語であるフレミッシュへの)翻訳にかかる時間などが原因で、法廷は15日もの長きに及んだ。
裁判所の2つの部屋が、この裁判のために占有された。地下の部屋は裁判そのもののために、そして、もう1つの部屋は大画面で裁判の進行を見守るジャーナリスト専用に。裁判記録は合計5800ページに及び、殺人事件でも例を見ないほど、多くのジャーナリストを呼び寄せた。
全てはフェスティナチームのソワニエ、ウィリー・ヴートがツール1998スタート地点であるアイルランドへと向かう際、ベルギーとフランスの国境地点で捕まったことに始まる。
車のトランクにはEPOを始めとする禁止薬物がぎっしりと詰め込まれていた。それは、1998年7月8日のこと。そして、それは、ドーピングが自転車競技の隅々まで浸透していた、ドーピング・ピークの時。選手たちは、自分の影よりも早く走ろうとしていた。以来、屈辱と汚名の波紋は、一気に広がり、裁判という名のボールがころがり始めた途端、今迄口を閉じていた人々が一斉に喋り始めた。
裁判は、ウィリー・ヴートの逮捕という規模に留まらず、スキャンダルは膨れていった。もはやフェスティナという1チームの問題ではなくなり、オンセ、FDJ、カジノを巻き込み、更に、ランスというフランスの別都市では、TVMチームの審議が進んだ。スキャンダルの波は、さざ波から大波へと変わった。
この裁判は、ある種、現行犯逮捕の強盗裁判のようなもの。古い文化の実態が白日の下にさらされ、余りにも行き過ぎた風習に「待った」がかけられた。
10人の被告達
| ウィリー・ヴート(ベルギー人) | フェスティナの元ソワニエ。彼が税関で捕まったことにより、全ては始まった。罪状は禁止薬物の密輸。刑務所で16日拘置された。 |
| ブルーノ・ルッセル(フランス人) | フェスティナの元監督。98年7月17日に、同じく禁止薬物の密輸で身柄を拘束され、11日間拘置された。 |
| エリック・リカエルト(ベルギー人) | フェスティナの元チーム・ドクター。罪状はルッセル元監督と同じ。プラス、違法薬物使用。98年10月20日まで、約3ヶ月も拘留された。末期癌で、彼に対する審議は、途中でストップした。 |
| クリスティヌ・パラニエ(フランス人) | ウィリー・ヴートの住む町の薬剤師。ヴートは彼女から薬物を入手したとして、ドーピング剤供与の罪状。 |
| エリック・パラニエ(フランス人) | 上記のクリスティヌの夫。薬剤師ではないが、共犯とされた。 |
| ジャン・ダリボ(フランス人) | フェスティナの元トレーナー。99年1月30日になって尋問を受ける。 |
| ジェフ・ドン(ベルギー人) | FDJのソワニエ。98年9月18日逮捕。毒物供与の疑い。98年9月29日まで拘束。 |
| ジョエル・シャビロン(フランス人) | フェスティナの元ジェネラル・マネージャー。99年2月3日、禁止薬物密輸で取り調べを受ける。 |
| リシャール・ヴィランク(フランス人) | 禁止薬物密輸共犯などの罪で法廷に立つ。 |
| ニコラス・テラドス(スペイン人) | オンセのチーム・ドクター。禁止薬物密輸で起訴。 |
フェスティナ裁判とヴィランクの出場停止に関するヒストリー (12/29/00 : AS新聞より)
・ 7月 8日、1998 フェスティナのトレーナーのウィリー ヴートが禁止薬物所持で拘束。
・ 7月20日、1998 フェスティナの選手たちがツールから締め出される。
・ 7月23日、1998 フェスティナの選手たちへの尋問で、ヴィランクは、ドーピングを否定。
・ 9月30日、1998 スイス自転車連盟がツェーレ、デュフォー、アミアン マイアーの3人のスイス選手の出場停止を決定。
・12月14日、1998 フランス自転車連盟がモロー、ルー、ブロシャールの出場停止を決定。
・ 3月26日、1999 ヴィランク、ドーピングを率先して行った疑いで法廷へ。
・10月24日、2000 裁判で、ヴィランク、初めてドーピングを認める。
・12月22日、2000 ヴィランクへの無罪決定。
・12月29日、2000 スイス自転車連盟より9ヶ月の出場停止が下される。
エキモフ、ゴンチャールに続け!世界戦を制したヴァインスタンス
10/16/00:フランス ル・フィガロ紙より和訳
彼は自国のピストで自転車競技を覚え、ベルギーにおいて職業としてのロード・レースを確立し、そして、イタリアのチームへと渡って行った。1998年、クロス・セッレ・イタリアという名もないチームでプロとなった彼は、翌年ヴィーニ・カルデローラへと移籍した。そして、来年は現マペイ監督のPルフェーブル氏率いるベルギーの新チーム、ドモ-Fフリッツへと移っていく。
「チームと僕は全ての点で、了解した。」ヴァインスタンスは、こう宣言し、間髪を置かずに、契約書にサインするつもりだ。ヴァインスタンスはもともとクラシックや、(総合優勝というより)ステージ優勝狙いの選手だが、この7月、初めてツールに参戦し、82位の成績でツールを終えた。
更に、このラトビア選手により、東方の旧ロシア帝国の勝利で占められた世界戦のこの 1週間のレースに終止符が打たれた。ウクライナ出身のセルゲイ・ゴンチャールが ITTで優勝し、ベラルーシのBZスタウルスカイアが女子RRを制覇。若手のロシア人 Eペトロフが U-23のITTを制覇したのだ。
そして、一方、フランス人最高位の選手といったら、JCロバンの18位。ジャラベールに至っては、あと2周を残すところでリタイヤ。フランスチームの監督 Cベラール氏は語った。「みんな、収まるところに収まったってことさ。強健のリーダー不在だったってことなんだから、悔いる余地もないさ。」
オリンピックITTで銅のランス、この日は限界への挑戦だった
9/30/00:ドイツ ズュート・ドイチェ紙より抜粋訳
オリンピック、46.8キロの個人タイムトライアルは、世界選手権タイム・トライアル タイトルを防衛するウルリッヒと、ツールの優勝者アームストロングの一騎打ちと見られ、ツールで優勝を勝ち得なかったウルリッヒがリベンジを果たすかどうかに注目が集まった。しかし、計算外にもアームストロングの同僚である34歳のエキモフが、両者よりもスピードで勝る結果となった。
恐らくアームストロングにしてみれば、ゴールド・メダルを獲得したのが、例のドイツ人のライバル選手でなく、友人のエキモフであったことに、少しばかりの慰めを見出していることだろう。試合後、ツールの勝者ランスは語った。
「僕は限界だった。心拍数はレースの間中、最大限だったので、あれ以上早く走ることは無理だった。それでも、上々の出来だったと思う。エキ(エキモフのこと)が勝って嬉しいよ。彼は僕の友人でもあり、この自転車界においては神話のような存在。
彼は、トラックとロードで頂点にたったわけだ。」
ヴィアチェスラフ・エキモフ:1966年 Vyborg生まれ。175cm、67キロ。2000年オリンピック 個人ITT金メダル。1988年、USSRとして出場したソウルオリンピックの団体ピスト追い抜きレースで金メダル。
リーダージャージの彼は、伝説の山アングリルでそれを成し遂げ、アングリルはお返しに、彼を伝説の人に変えた。アングリルとエラスが、伝説を分かち合った瞬間だ。ただひとつ、欠けていたものがあったとしたら、それはこの日、彼がこの日、区間優勝を成し遂げなかったということ。
もう一人のクライマー、ジルベルト・シモーニが区間優勝を奪ったのだ。でも、ケルメは、目先の勝利よりも総合順位を優先させた。エラスは、カセロより先んじること3分41秒。カセロにとっては、深い溝となった。
アングリルの神話が実証された今年のヴエルタ。それは、エラスのお陰であり、ヴエルタ2000の日程設定のお陰でもある。
アングリルが、勝敗を決定付ける峠となったのは、実は今回が初めて。昨年の本地点通過は第8ステージ。
ホセ・マリア・ヒメネスの天才ぶりを実証したものの、オラーノも予想外の踏ん張りを見せた。そして、結果は、といえば、アングリルがレースの勝敗を左右するまでには至らなかったのだった。でも、昨日(12日)は違った。ここでついた差は、ヴエルタの勝敗という意味では決定的となった。
レースは残り9キロ地点で動いた。地獄の峠が始まった。エスカルティン、エラスが飛び出していく。カセロ、トンコフも、やがてそれを追う。ここまで来ると、誰も他人を頼って登る状態ではない。一人一人が自分の力だけで登っていくのだ。
エラスは、クライマー独特のスタンディングで、リズミカルに登っていく。平地タイプのカセロはというと、シッティングのままペダルを踏んでいく。各々が、各々のスタイルでアングリルに立ち向かっていく。最後の審判は、そこから少しずつ、だが着実に1キロずつ、下されていく。1キロごとに両者の差は30秒ずつ開いていく。まず1分差、そして2分、更に3分。。。。
プロトンから飛び出たのは13人。そのうちエラスが打ち負かすことができなかったのは、2人だけ。シモーニとフルスカだ。まずシモーニがジロでの表彰台に続き、ヴエルタの勝利の余韻に酔いしれる。エラスは彼には追いつけなかった。でもそんなことは問題ではない。
黄金のリーダージャージはマドリッドまで安泰になったのだ。この日は、アングリルという山が栄光もたらした日。そして、ヴエルタが、11年ぶりに、純粋なクライマーに手を差し伸べた日となった。
ヤン・ウルリッヒがついにやった。ヴエルタ関係者がみんな恐れていたあのことを。誰も敢えて、その日を考えないようにしていたのだったが。。。1999年のヴエルタの覇者は、レースを途中放棄することを宣言した。家に帰って、オリンピックの準備をすると。
きのうのレースで、ウルリッヒは、いつもと全く変わらない様子だった。いつものように、トップ集団を狙い、ロンバルディのスプリントをアシストした。ゴールインのあと、ホテルの方に向かった時、同じホテルにいるケルメのエラスとグティエレスと一緒になった。そして、ウルリッヒは先んじて告げた、「僕はヴエルタから姿を消すよ。」
その3時間後の記者会見は、全くもってテレコムスタイルだった。会見の事前発表もなし、テレコムの公報が通訳をし、フランス語とドイツ語のみの会見だ。お約束の7分はあっという間に過ぎ、肝心な質問もそれ以上受け付けることなく、ウルリッヒは立ちあがり、部屋へ戻っていった。
ウルリッヒは、まだ優勝の可能性を残したまま、去っていった。現在トップのカセロとのタイム差は2分33秒。しかし、99年に比べると、優勝の可能性はやや厳しい。
99年の時は、どちらかというと楽勝だった。当初リーダージャージを着ていたオラーノがコベルトリアで落車し、リタイヤしてからというものは、スイスイと勝ち残っていった。スペイン選手で、彼を打ちのめすことのできる者はいなかった。ウルリッヒも弱点を全くさらけださなかった。しかし、今回はちょっと違う。カセロ、エラス、ガルデアノらが3つどもえでぶつかってくる。ウルリッヒも、力を出しきって、戦うことを余儀なくされた。
旧東ドイツ出身のウルリッヒにとって、オリンピックは最大のイベント。その試合には、体調万全で出たいと望んだ。それから、世界選手権のTTチャンピオンの座を防衛しなくてはならない。しかし、選手にも、主催者側にも、双方、立場がある。ヴエルタの主催者ウニプブリック会長フランコ氏は、ウルリッヒのリタイヤに対し、不快感を隠そうとはしなかった。
リタイヤの理由は、純然な体調不調ではなく、オリンピック出場のためである、という認識のもので、こう述べた。「彼のリタイヤは、彼にとって大きな敗北だ。」
Q 走行距離計のセンサーをいじってていた時に、事故は起きたようだけど、実際どんな風に起きたの?
− スポークとメーターのプラスチックがこすれて、音がしてたんだ。よくあることなんだ。ちょっと気になってオンセのチームカーに行って、メカニックのファウスティノに聞いたんだ。走りながら処置できるかね、って。そしたら、ちょっとした音なら、そのうち止まるから、そのままにしろ、って言われた。
Q なんで、その通りにしなかったの?
− 最初はそうしたよ。でも、次第に音が大きくなって。坂に差し掛かったから、じゃあ、修正しよう、と思ったんだ。そしたら、オドリオソラとエスカルティンがアタックしかけたんで、それを追いかけた。
その後、ちょっと落ち着いて、再度修正しようとトライしたんだ。そうしたら、ちょうど溝があって、はずみでスポークに指が挟まった。いつものやつと違ったんだね、スポークが。ヴエルタで乗った自転車のスポークは、いつものよりプレーンで、スチール製だったんだよ。で、包丁のように、すぱって切れてしまった。いつものやつだったら、骨折程度で済んだだろうよ。
Q 気を失ったのは、痛さから?
− いや、出血と緊張のためだね。最初は平気だったんだけど、担架に乗った時、力が抜けた。想像してたよりも、痛みは意外に少なかった。どっちかというと、切ったというより、ハンマーで殴られた感じの痛みだった。落車の時の痛みの方がよっぽどひどいよ。
Q ついてないね?
− いや、そんなことはないよ。落車で起こる事故のほうが、ダメージはよっぽど大きいね。実際僕は今、元気なんだから。マルセル・ビュストの落車や、ヨハン・ムセウの事故のほうが断然ひどかった。
Q リタイヤは残念だったね。
− うん。ツールに出ずに、ヴエルタに賭けて来た。ジムでみっちり準備をして、調子も良かったのに、何も残せぬまま、去らなくてはいけなかったからね。
7/24/00:フランス レキップ紙より抜粋訳
とにかくザニーには、体格ががっしりしている。だから山登りはとっても、とってもきつい。「今年もツールは、僕にとってかなり苦痛だった。とにかく、平坦なコースでも、のっけからスピードが出る。
通常ステルスを先導する役だが、彼は僕より早いんだ。まわりはそういった連中ばかり。そんな彼らが100%の力を出しきって走るんだぜ。
そして、スプリントのお次は山岳コースさ。今回も、山では相当 喘ぎ苦しんだけど、なんとか集団の尾っぽに食らいついて走ったんだ。そして、最終パリでの区間優勝ゴール。今までの努力が実を結んだ。。
そう思った。2年前、パリで、寸でのところで優勝というところだったけど(ステルスに次いで2位だった)、今度は、本当に驚異的なことを成し遂げたんだ。シャンゼリゼでのでっかい優勝以外にスゴイ勝利はないからね。」
巨大チームが妬みを持って見られるということはありがちだが、マペイはそうした単純な妬み以外にも、いくつか周囲から反感を買う出来事をクリエートしてきた。例えば、1999年ジロの際のタフィの発言。彼の一言は、他の選手の反感を、瞬く間に買ってしまった。
(彼は、UCIのドーピング検査の上に、更にイタリア・オリンピック委員会の検査も加え、多重チェックにすべきだ、と公にコメントした。)
そして、2000年ツールの最中、マペイの幹部スクインジ氏が「今ツールでトップにいる選手は、みんなドーピングをやってる。」、とも受け取れる過激な発言をし、これを機に、チームへの反発は最高潮を迎えた。
その発言があった頃には、既にバルトリ、ベッティーニ、ステルスらが去り、最終日まで生き残ったマペイの選手はたったの5人。彼らがどんなに肩身の狭い思いをしていたことか。幹部の発言とはいえども、やり玉に挙げられたのは、こうした残った5人の選手たちだった。
そして、彼ら自信、そのままひっそりと片隅で息を潜めたままツールを終えてしまうことになる、、、そんな予感すらしていた。そんなチームの沈滞ムードの中、迎えた最終日。
ザニーニがシャンゼリゼでトップでゴールインしたのだった。彼がゴールしたその瞬間、周囲のそれまでのマペイへのわだかまりは、一気に吹っ飛んでしまった。
「自転車よりサッカー」、「ツールドフランスはTVで見たことも無い」、という家系に育ったモロー。ひょんなことから始めた自転車競技だったが、やがて頭角を現し、フェスティナへ。
来る日も来る日も、ヴィランク、ブロシャール、デュフォーといったスターのアシストとして献身的な日々を送った後、98年に、クリテリウム インターナショナルで優勝。これから輝くと思われた矢先、クリテリウムのドーピング検査で引っかかっていたことが判明。
それでも出場停止を免れて出場したその年のツールで、よもやの更なる悲劇が待っていた。いわゆる、98年のフェスティナスキャンダルというやつだ。
あの時は、「1ヶ月間、野菜のように無気力になった、もう死にたいと思った」、と語る。それから、時が徐々に心を癒し、恋人、家族らの支えを経て、再びなんとか自転車に乗る気になった。結局、自分には、これしかなかった。
6ヶ月の出場停止の後、99年、フェスティナで活動開始。しかし、世間の眼差しは容赦なかった。レースの後、山頂のホテルで、スーツケースを仮のベットに仕立て、エルベ、ブロシャールと3人肩寄せ合って寝たこともあった。
地獄のような辛酸を舐めた仲間同士、身を寄せあって互いに励ましあったあの時。互いが互いの心の支えだった。
今でもあの時のことを思い出すと、身震いする、と語る。翌年、エルベもブロシャールもチームを去ったが、それは彼らが判断すること。今でも仲間であることに、かわりない。フェスティナ残留組は、これでたった一人になった。
フェスティナは、自分が輝けるチーム、そう思ったからJドゥラトゥールには移籍しなかった。漸く長いトンネルを脱したせいか、或いは、もともとの彼の性格なのか、彼はインタビューで、ずっとずっと話し続けた。