mas ciclismo ハビエル・オチョア特集ページ  マス・シクリズモ (もっとCiclismo)

特ダネ・ニュース 2001年以降の記録からハビエル・オチョアの記事を抽出..
copyright(c) 2004- (duration unlimited) mas ciclismo, All Rights Reserved.

HOMEへ
ニュース(最新版)へ

    2004年9月19日、ハビエル・オチョアがアテネのパラリンピック、3km個人追い抜きで世界新記録をマークした。ここまでくるには長い長い道のりだった。
    2001年2月15日、彼と双子の兄弟リカルドは交通事故に遭い、リカルドは即死。ハビエル自らも60日以上の昏睡状態にあった。
    事故に遇った日から今までに掲載したトクダネのニュース・アーカイブ。

    2000ツールの時のもの。拡大なし。

    写真1)クールシュベルの登り。
    写真2)ITT前ウォームアップ
    写真3)シャンゼリゼパレード
    一番右がオチョア。


  • リカルド・オチョア交通事故死。兄のハビエルは危篤状態。 ( 2001.2.16 )

    たった今、非常にショッキングなニュースが飛び込んできた。ケルメのライダーで昨年のツールで山岳ジャージを数日着たハビエル オチョアが昨日交通事故に遭った。そして、彼の双子の弟で、やはりケルメのライダー リカルド・オチョアが死亡した。オチョア兄弟はマラガにあるフリーウェイでルックのバイクでトレーニング中、後ろから来た車(ボルボ)に轢かれ、リカルドが死亡、ハビエルは脳、及びからだ中に重傷を負い、昏睡状態だという一報が入っている。

    2人は18日から開催されるブエルタ・ア・アンダルシア(ルータ・デル・ソル)出場前のトレーニングをしていた。(リカルドが出場予定。)事故前日の14日には2人はそれぞれの彼女を連れてトレーニングをしており、彼女の一人が撮影したビデオが最後の姿となった。


  • オチョア兄弟交通事故 続報1 ( 2001.2.16 )

    ケルメのライダーで昨年のツール、オタカム・ステージの覇者ハビエル・オチョアと双子の弟リカルドの事故続報。2人が轢かれたのはボルボで、運転手のほうは、ショックのためか失神に近い状態で、暫く尋問に答えられる状況ではない模様。

    当初2人は双子であるために顔が似ていて、どちらが死亡したのか混乱が続き、2人の判別をしたのは、リカルドの彼女だった。やはり先にお伝えしたとおり、リカルドが死亡で間違いなことが判明。

    一方、ハビエルは即座に手術をしたが、未だに危篤状態。なにしろ、脳の外傷ほかに全身いたるところが複雑骨折で、肺もやられている。事故が起こったは2月15日の16:15。2人はただちに別々の病院に担ぎ込まれ、その時点でリカルドのほうは心臓は動いていたものの、既に脳死状態だったという。

    本日朝9時に死体解剖が行われ、バスクの都市ビルバオに移送される予定。ハビエルのほうは、なおも予断を許さない状況だ。


  • オチョア兄弟交通事故 続報2 アルバロ・ピノ元ケルメ監督 緊急会見 ( 2001.2.16 )

    双子の兄弟オチョアの状況(リカルド オチョアの事故死と、オタカムで活躍したハビエル オチョアの危篤状況)について元ケルメの監督アルバロ ピノが語った。

    「非常なショックを覚えている。再び痛ましいライダーの死だ。ハビエルは僕がケルメに加入させ、リカルドはマノロ・サイス(オンセ)監督が最初に勧誘した。彼らは仲が良くて、僕らは2人のことをこう言いってからかったものさ。”おまえら(双子の)2人は、年の半分以上は一緒にいるんじゃないか?とにかく2人で一緒に走るのが好きだよなぁ。”ってね。」


  • オチョア兄弟交通事故 続報3 サイス監督(ONC) 緊急会見 ( 2001.2.16 )

    「こういった災難が自転車選手に慢性的に起こるようになってしまった。リカルド・オチョアは(ケルメに移籍する前)3年間オンセで走った。たいした若者だよ。ちょいと慌て者だけど、いい奴だったよ。こうした事故に対する法制度(交通法)の整備が急務だと思う。」


  • オチョア兄弟交通事故 続報4 フェルナンド・エスカルティンとペドロ・デルガド緊急会見 ( 2001.2.16 )

    エスカルティン(ケルメの元同僚。2001年コーストへ移籍):
    「オチョアの2人はバスク出身(バスクのビスカヤ地方)だけど、アンダルシア人っぽい気質があって、人気者だった。ツール2000ではハビ(ハビエル)が素晴らしいステージ優勝を遂げた。彼はスペイン側のバスクより、フランス側でトレーニングする方が落ち着くと言っていた。」

    デルガド:
    「いつでも自転車選手の事故死っていうのは悲しく、心から哀悼の意を示したい。解決策は運転手側の責任追及をすることよりも、運転手が交通上の問題をもっとよく認識することだと思う。」


  • オチョア兄弟交通事故亡 続報5 事故はこんな道路で起こった ( 2001.2.16 )

    オチョア兄弟が事故に会ったのは、2方向の幅4mの道。彼らは狭い50cmの路肩を走行していた。そこへ後ろから来たワインレッドのボルボが2人に追突。彼らり轢いたボルボは衝撃で大破。しかし、運転手は(イニシャルはJ.F.L)無傷だった。場所はマラガへ向かうフリーウェイA357。


  • オチョア兄弟交通事故 続報6 ハビエル・オチョア最新状況 ( 2001.2.16 )

    自動車事故直後、リカルド オチョア(26歳)の方は、一刻を争う状態だったため、ヘリコプターでマラガのクリニックに移送された。病院搬送時、心臓は動いていたものの呼吸停止で脳死状態だったため、蘇生も余りほどこされないまま亡くなった。

    一方、マラガのカルロス アヤ病院に救急車で運ばれ、現在ICUにいるハビエルは、現在危篤状態が続いている。家族やケルメのベルが監督が病院に駆けつけた。最新状況は以下の通り。

    脳内出血を伴う脳頭蓋骨のおびただしい損傷で、グラスゴー・コーマ・スケールは5(下記注参照)。肺にまで達する胸部外傷、肋骨複雑骨折、一部骨が粉砕するほどの右肩骨折、鎖骨骨折、上腕左右骨折、背中切り傷、胸椎骨折、左頚骨骨折、豪磴骨骨折、呼吸機能低下、脈拍不安定など。外傷については明け方までに手術が行われたが、特に胸部の怪我がひどいため、呼吸機能への影響が懸念される。

    ツール2000第10ステージ。まんまと逃げ切り、見事オタカムで1位でゴールした時のあの嬉しそうな表情が忘れられない。悲惨な状況と知りつつも、なんとか助かって欲しい、せつにそう思う。

    ---------*----------

    亡くなったリカルド オチョア(ハビエルの双子の弟)履歴

    1974年8月30日生まれ 身長181cm、体重66キロ

    90年サイクロクロスのサブチャンピオンとなる。93-94年は ぱっとしなかったが、95年カフェス バクエチームの時にスペインチャンピオンになりプロへの門戸が開け、96年からオンセに。97年、ジロで51位、ヴエルタ86位。98年サバスチャンクラシックで5位。2000年は兄弟のハビエルのいるケルメに移籍し、カスティリヨンで12位になった。ジロは42位。

    ---------*----------

    グラスゴー・コーマ・スケール(GCS)にいては、ER Carteのサイトにわかりやすく書かれている。(JUMP)このサイトの中段の説明によると、「開眼、言語反応、運動反応の3つについて、点数化をして表したものです。点数が低いものほど、意識障害が重いことを示しています。15点満点(正常)で、最低点は3点で、深昏睡と言います。一般に8点以下を重症として取り扱います。」と。


  • ケルメはレースをキャンセル検討 ( 2001.2.17 )

    ハビエルオチョアは今も生と死の間で戦っている。ここ48時間が鍵という見解。ケルメチームはルータ・デル・ソルのレース出場を取り止めにするかどうか検討中。


  • 運転手はマラガ・スポーツ大学の副学長 ( 2001.2.17 )

    オチョア兄弟り轢いた人物は皮肉にも、マラガ スポーツ大学の副学長であることがわかった。そして、オチョア兄弟の父も、以前スペイン南部、同じアンダルシア地方のフエンヒローラで車に轢かれて骨折をした経験があるという。

    亡くなったリカルドの葬儀にはケルメの25人の選手のほとんどが参列した。最終的に2月18日―22日に予定されているルータ・デル・ソル(アンダルシア ツアー)へのケルメの参加は任意となった。

    出場は選手の自主性に任せるというのだが、メンバーの一人、ハビエル・パスカル・ヨレンテは、「とても走れる状態ではない」と言っている。他のメンバーも、自転車には乗れない、と語った。ハビエルの方は、脳圧が高く、依然昏睡状態のまま。


  • ケルメはレース出場中止。エスカルティンは現在はチーム・コーストの選手だが、やはりレース棄権 ( 2001.2.18 )

    ハビエル オチョアの容体は、深い昏睡状態のまま安定している。

    一方本日、18日からスタートするヴエルタ・ア・アンダルシア(ルータ・デル・ソル)のチームプレゼンテーションでは、1分間の黙とうが行われた。また、ケルメチームはレースの実行委員に正式にファックスで、レース棄権を通知した。

    「我々はモティベーションを失い、またチームの団結状態も混乱しているため、ヴエルタアアンダルシアレースへの参加を取りやめさせて頂きたく。つきましては、どうか状況ご拝察の上、ご了解のほど宜しくお願いします。チーム・ケルメ」と。

    一方、現在はコースト・チームにおり、このレースでデビューを飾る予定でいたエスカルティンも、オチョア兄弟との関係が深く、レース参加を取りやめた。現在、リカルドの葬儀に出席している。2人を轢いた人物は、居眠り運転の可能性があるらしい。


  • ヴエルタ・ア・アンダルシア 出場選手のリアクション ( 2001.2.19 )

    現在アンダルシアレース出場中の選手らは、オチョア兄弟の事故に、衝撃を受けている。特に、車の事故については、どの選手も恐いという思いをしたことがあり、つい最近の経験を、フェスティナのガルシア・カサスが語った。

    「先日練習中に、車が後ろからあおってきた。なかなか僕らを追い越すことができなかったせいか、運転手は激怒して、僕らを負い越す際に怒鳴った。おまえらを轢いてしまうことなんて、なんともないことなんだぞ!と。」

    ハビエルオチョアの方は、人工呼吸器を取り付けられた状態。


  • オチョア 家族の戦い ( 2001.2.22 )

    事故の状況がいまだにはっきりとせず、オチョアの兄弟アンドニは、自転車選手の側に非をなすりつけようとする加害者側の態度に業を煮やしている。加害者の妻は、オチョア兄弟が車道側に飛び出した可能性があると主張。

    しかし、アンドニは、「車道に例えはみ出たとしても、運手手は、ブレーキをかけるのが普通じゃないか?でも、ブレーキの跡は一切なかったんだよ。しかも加害者側は、ゆっくり走行していたと主張しているけど、時速50キロ走行なんて信じられっこないよ。だって、リカルドとハビエルに起こったあの残酷な状況を見てみろよ。リカルドのからだはバラバラ。ハビエルにしても、骨という骨はほとんど折れてるんだ。」

    そして、「うちの母親は、今、生きながらにして死んでしまったような状態だよ。すっかり打ちのめされている。息子の写真、ジャージ、靴下、トロフィーを見るたびに崩れるように突っ伏している。ハビエルの今の状況は、追っかけてくる死の使い(注1:彼は"死のプロトン"という言葉を使った)から逃れようと今必死に戦っているところだ。」

    一方、オチョアのお母さんマリアが、事故を起こした運転手の妻と面談した。妻は相変わらず、「夫は居眠りなどしていない。」の一点張りで、「相手がそんなに有名な自転車選手だったとは知らなかった」などと発言した。

    これに対しマリアは、「2つの尊い命に危害を及ぼしたわけで、犠牲者が有名だったといかいうこととは関係ない。自動車事故で亡くなっていく無名の自転車選手が大勢いる。」と発言した。スペインでは、先日、自転車の安全な走行を訴えるための大規模なデモが行われた。


  • トップ プロ選手も参加したサイクリストのデモ行進 :「道路の安全を!」 ( 2001.2.25 )

    オチョア兄弟の事故が発端となり、サイクリストたちが、スペインの大都市マドリッド、バルセロナ、バレンシアで道路の安全性を求めてデモを行った。マドリッドでは、7キロの道をプロ、アマのサイクリストたち、サッカー レアルマドリッドの選手たち、スペインのアスナール政権反対派の人々が行進した。

    ツールで優勝経験もある元ライダーのデルガドが中心となり、昨年のヴエルタの覇者エラス、ヴエルタ2位のカセロ、エスカルティン、そしてケルメの同僚たち、ヒメネス、ヤネラスなどが揃い、リカルド オチョアの弔い行進といった様相だった。

    スペインの道路がいかに怖いかを先日語ったトンコフも参加した。彼自身交通事故に遭っているせいもあるが、最近彼の住んでいる地域でオートバイが自動車と衝突し、若いライダーが死亡したということで、ひとごとではないという。「少しでも、なにか自分にできれば。。」そう言って参加していた。

    インデュラインの欠席が目を引くが、彼は別件でどうしても来られなかったそうだ。デルガドは政府の安全対策を促す訴状を提出した。スペインでは昨年1年間で2500人のサイクリストが交通事故で怪我を負い、100人のサイクリストが事故死している。デルガドによると、政府もこの問題には関心を示しているという。

    一方、ハビエル オチョアの容体は依然 深刻のまま。深い昏睡状態にある。しかし、ハビエルのからだが時折動いたり、口元から声が漏れたりするために、オチョアの彼女や家族たちは、彼がすぐにでも話しを始めそうな気がするという。


  • ハビエルの容体悪化 ( 2001.2.28 )

    現在入院中のハビエル オチョア、現在肺炎を併発し、予断を許さない状況に。


  • 笑顔を失ったケルメの選手 + オチョアに捧げる勝利をやっとあげた! ( 2001.2.28 )

    先日アーエス新聞に「微笑を失った選手たち」という見出しが踊った。記事はケルメの監督ビンセンテ・ベルダ氏の独白で始まる。

    「レースになれば、選手たちは集中する。悪いのはレースの前後だ。どうしてもオチョア兄弟のことが話題に出てしまう。我々は常に2つの戦いを強いられているようなものだ。レースで走ること、そして、ハビエルの無事を祈りながら、思い出と戦うこと。」

    チームメンバーのピペ・ゴメスも語った。「オチョアのことはなるべく語らないようにしている。自分達が落ち込んでしまうから。でも、夕食や朝食でみんなが集まる時、我々の口から、以前のような微笑が消えていることに気づくんだ。やがて誰からともなくハビエルのことで口を開き、いったんそうなると、あとは思い出話が止まらなくなる。」

    監督は毎日ハビエルのお父さんと彼女に電話をして状況を必ず確認しているそうだ。だから、選手から、その日の状況についておのずと監督に質問が行ってしまう。そして、監督が続けた。「ハビエルのいいニュースが入ってくると、我々に一瞬笑いが戻るんだ。例えば先日、MROIの結果により、脊髄へのダメージがないことが分かった時なんかね。」

    そして選手の誰もがオチョア家族に勝利を捧げたいと願っている。フランシスコ・ベヨが語った。「勝ち星を捧げたいけれど、余りそれだけに取り憑かれないようにしてる。あせって逆効果になってしまうから。勝てる時に勝ちがやってくるだろう。」

    アイトール・ゴンサレスも述べた。「最初に勝った選手が家族にその勝利を捧げるんだ。これを考えながら走ることでレースに集中できる。この執念なしでは、練習にすら集中できない状況なんだ。」

    最後に選手が今の心境を語った。カベヨ:「この不幸を受け止めなくてはいけない。そうしないと前のようなガッツが出てこない。思い出はいつでも涌き出てくる。特に楽しかったひとときの思い出が。でも、我々にとって人生は続くんだ。」

    デ・ロス・アンヘレス:「レースではとにかく自分達の人生を考えて走る。でもホテルに戻ってからが最悪だ。どうしても話題はその話になる。ハビエルの回復だけが、関心事なんだ。」

    ピペ:「オチョアたち一緒いた時のエピソードが駆け巡る。僕は2人をアマ時代から知ってるんだ。今年は特にリカルドと一緒に過ごすことが多かったので更に落ち込んでいる。年間レース スケジュールがほとんど同じだったから。。」

    ちなみにメインの選手がバレンシアを走っている間、ヴエルタ・ア・マラガで遂にケルメのホセ・カイェタノ・フリアが総合優勝し、ケルメにとって最初の大きな勝ち星を挙げた。


  • メモリアル・リカルド・オチョア ( 2001.3.18 )

    スペインのシルクイト・インテルナシオナル・デ・ヘチョ・デ・プロフェショナレス(ヘチョ・サーキット)のレースは、このたびオチョアの家族の承認を得て、2月15日に亡くなったリカルドにちなんで、このレースの名称を次回からメモリアル リカルド オチョアと命名することを決定した。

    レースは7月31日に開かれる。また、前回ナンバー1番をつけたのはハビエル・オチョアだったこともあり、1番は永久欠番にする。ハビエルの状況は、今も呼吸機能系統に問題があり、先日再度手術を行ったところ。意識はまだ戻っていない。


  • オチョアが目をあけた!! ( 2001.3.21 )

    現在入院中のハビエルオチョアは、依然ICUに入院しており、人工呼吸器を取り付けられたままだが、このほど目をあけたという。状況はこれで完全に改善したという訳ではないし、意識が回復したということではないが、一歩前進。人工呼吸器の取り外しもできる可能性が出てきた。


  • ハビエル オチョア:奇跡は起こるのか 詳細病状 ( 2001.3.22 )

    ハビエルの彼女ベリは、2月15日以来、毎日欠かさずマラガのカルロス アヤ病院にいるオチョアの元を訪ねている。でも、ただ彼の顔を見に行くだけではない。彼女はあるミッションを自分に課している。ハビに話し掛け、なんとか回復への糸口をたぐりよせようとしているのだ。

    「私が話し掛けると、ハビの脈拍が上がるの。私の言葉に反応しているかもしれない、ってお医者さんに言われて、希望を抱いているところ。顔色も良くなって、自転車選手らしい顔色になった気がする。」

    また、傷の消毒の際、ハビは目を開け、両手を動かしたという。これについては、本当に外部刺激に対して反応したのか、或いは単なる痙攣なのかは即断できないということだ。

    しかし、病院側は、このほど、ハビエルの病状にある程度の改善があった、と発表した。依然として昏睡状態であり、予断は許さないとしながらも、「深い昏睡状態」から、一歩だけ進んで、「引き続き警戒のいる昏睡状態」になったという説明があった。また、呼吸不全に多少改善が見られ、人工呼吸機を一時的にはずすことができた模様。

    兄弟であるアンドニ・オチョアはスペインのTVアンテナ3で、「亡くなった リカルドを含めた神々がハビのそばに付き添って、この暗いトンネルから彼を助け出そうと押してくれていると思う。」と語った。

    一方で、父のリカルド(亡くなったオチョアは父親と同じファーストネームがつけられていた)は、TVE1のテレビ放送で、余り楽観的にならないよう、自戒している様子を語った。

    「妻に言ったんだ。TV、ラジオ、家族、友人の言うことに耳を貸してはいけないと。僕と医師だけが事実を知っているのだと。」余り楽観的な報道や言葉を信じて、後で落胆が来るのを恐れている、そんなコメントだった。


  • オチョア ちょっと改善 ( 2001.3.30 )

    ハビエルオチョアの病状がちょっぴり明るい状態になった。人工呼吸器を取り外して既に12日が経つ。肺炎も治り、抗生物質投与も不要になった。神経系統の改善としては、手足を少し動かすことができ、ほんの少し、外部からの刺激に反応するようになった。医師団は、更なる改善も視野に入れ、今後、慣れ親しんだ環境にある別の病院に移送して、長期入院の体制をとるようにすることが検討されている。


  • ハビ(ハビエル オチョア)故郷に帰る ( 2001.3.30 )

    遂にハビが、マラガの病院の外に姿を現した。2月15日にICUに入って以来のことだ。ASのサイトで、その時の彼の写真を目にしたが、目はあいていたが、意識がある感じではなかった。彼のベッド周辺にはチューブ数本が出ていて、彼の目は一点を見据えている。

    これから、マラガの空港に向かうのだ。マラガの空港から3時間の旅程でビルバオ(スペインバスク地方都市=ハビの第1の故郷)の病院へ移送される。ハビは、事故に遭遇した際に住んでいたのがマラガだったため、マラガの病院にいたが、もともとの生まれ故郷に移してやりたい、それが周囲の希望だった。

    人工呼吸器がはずれたため、移送を決断。しかし、彼の最新状況については、家族の了承がないため、ビルバオの病院側からのコメントは一切出ていない。


  • オチョア 奇跡の生還! ( 2001.4.21 )

    2月15日の事故以来、60日以上昏睡状態が続いていたハビエル・オチョア。当初グラスゴー・コーマー・スケール5という厳しい状況にありながら、なんと奇跡的に意識が戻った!

    マラガから、慣れ親しんだバスク地方の都市ビルバオの病院に移送されたハビエル オチョア。このほど遂にICUから、外傷性傷害専門病室に移った。体重は20キロほど減ったが、話すことができるようにまで回復した。まさに奇跡といっていいだろう。

    事故から2ヶ月(事故は2月15日)余り。深刻な昏睡状態、からだ中の複雑骨折に見舞われ、親族でさえも、いったんはその死を覚悟した。しかし、ケルメのライダーは、ツールの最重要ステージ オタカムで見せたそのバイタリティー溢れる力で、生に向かって漕ぎ続けたのだ。昏睡状態を脱した今、ハビは、病室を訪れる全ての人を覚えていた。家族、恋人、ケルメの同僚たち。。。彼らの手を握り、話すこともできるようになった。

    長い会話は無理だが、聴覚は問題ない。神経系に多少ダメージを受けたものの、脳細胞へのダメージが余りなかったようだ。今迄チューブ経由で栄養補給されていたが、漸く経口食が可能となった。67キロあった体重は、今50キロ。筋肉は全て削げ落ちたが、食事の開始により、日増しに体重も回復していくことだろう。

    今日から麻痺した手足のリハビリも始まった。皮肉にも、手足が全く動かせなかったことで、鎖骨、頚骨、椎骨などの骨折の回復が早まったという。そして、血行力学的にも、呼吸機能、腎臓機能も、正常の枠に収まるようになった。いずれにしても、ハビは、自転車選手のからだが鉄のように強靭であることを実証した。

    しかし、今後、彼には最大の難関が待っている。兄弟リカルドの死を乗り越えられるかどうか、ということだ。ハビは、コミュニケーションが可能になって以来、リカルドの状況を質問し続けた。家族はまだ、リカルドの死を隠している。別の病棟に入院している、と言って。ハビは、それを信じたい、そう思っている。でも、時々、その説明に疑問を感じ始めている。


  • オチョア 読み書きOK、でも自転車のことは話したくない。。 ( 2001.5.6)

    ハビエル・オチョアのリハビリテーションが進んでいる。固形物も食せるようになり、読み書きも徐々に開始。5+5=10程度の算数から始め、周囲は辛抱強く彼の回復を介助している。兄弟のアンドニによると、現在50キロになったからだを戻すために、病院のジムで筋トレも始めたという。

    彼らは、ハビエルに、フレッシュ・ワロンやバスクツアーの話題を持ちかけたが、ハビエルは自転車のことは話したがらなかったという。彼は、事故のことはどうやら覚えているようだ。しかし、実際、何が起こったのかは、よくわからないという。トラックと乗用車の間に挟まれたような格好になった、ということを言っているらしい。

    リカルドのことは、あれ以来、聞かなくなったという。どうやら、別の病院でリハビリしている、という言い訳は、完全に嘘だと気づいているらしい。


  • オチョア 着々と回復 ( 2001.5.9)

    固形食が食べれるようになったハビエル・オチョア、おかげでかなり力が戻ってきた。現在食欲旺盛で、病院食全てをたいらげるのみならず、友人の差し入れのお菓子などもモリモリ食べている。食べ過ぎを気遣って、周囲が止めに入るほどだ。

    しかし、やせてしまった分、あと20キロは取り戻す必要があり、病院では、食欲があるのはいい兆候と認めている。そして、これから、さらにリハビリの新しいプログラムが始まる。同時に、物理療法の注射と、友人のマッサージャーによる治療も受ける予定だ。


  • ハビエル オチョア 退院、リハビリテーションセンターへ ( 2001.5.12)

    オタカムのヒーローの奇跡が続いている。一時は危篤と伝えられ、重度の深い昏睡状態に陥ったものの、84日間の入院の後(うち44日はマラガ、40日はクルセスの病院に入院)、ハビエル オチョアは、昨日、グイプスコア州にあるリハビリテーションセンターに転院した。ここで、彼は2月15日の大事故の治療を続けていく。

    当地には、ハビエルを肉体的、そして精神的にも支えるスタッフが揃っており、彼の心のケアも含めて総合的に回復治療がなされる予定になっている。彼の身体能力の改善具合のほうだが、固形食摂取、首尾一貫した会話能力、読み書きが可能である一方で、自立して、自分で動き回ることはできない。従って、今回の転院に際しては、担架で運ばれた。

    実はこのほど退院前、病室でハビエルの兄弟アンドニがハビエルと2人っきりになった際、思い切って双子の兄弟リカルドの死をハビエルに告げた。

    アンドニ「リカルドについて話そうか?」、ハビ「うん、そうだね。」、アンドニ「事故のことは覚えてる?」、ハビ「うん、覚えてるよ。」、アンドニ「リカルドは、あの世に行っちゃったんだ。」、ハビ「悪ふざけはやめろよ。」そう言ったハビは、涙を見せるでもなく、悲しみの表情を浮べるでもなかった。

    アンドニは、ハビがそのニュースを 心の中で受け止めることができるのかどうか、わからず、それ以上、その話をすることはできなかった。家族も、医療スタッフも、ハビが事故の全てを受け入れるためには、まだ時間が必要であると痛感している。これもまた、リハビリテーションの克服課題の1つだ。

    ハビのリハビリプログラムは半年程度かかる見込み。これからが正念場だが、本当の意味での回復は少しずつとなるだろう。しかし、アンドニにとって、この半年なんてなんでもない。「ハビは、一時は死の淵にあったし、あるいは、良くても植物人間になると思われた。その思いに比べれば、今は時間がすべて解決してくれるんだ。」

    でも、ハビエルは、自転車の話題は、まだ受け付けない。多分、彼が自転車競技に戻れるということは、空想上でしか有り得ないかもしれない。でもハビエル オチョアは、人生のレースの一番辛いステージを既に勝ち取ったのだ。(スペインのスポーツ紙 アーエスより)


  • ハビエル・オチョアが みんなの前に姿を見せた日 ( 2001.6.8)

    2月15日に事故の後、死の淵から蘇ったハビエルが、このほど病院の中庭で記者達の前に姿を現した。事故の前から付き合っているガールフレンドのベリや家族らに付き添われ、車椅子で登場したハビエル。昨年のツールで見せたあの愛敬のある表情が戻って来た。

    記者たちに微笑みを振りまきながら、帽子を取って何回もみんなに会釈を繰り返した。オチョアの家族は、6月3日の日に、ハビエルが事故以来初めて外出をした時のことを語った。レストランで食事をし、その後 シエスタをするために病院へ戻る途中、通行止めの道に出くわしたという。バスク警察に事情を聞くと、自転車レースが通るための措置だという。ハビエルに家族は聞いた。「レースを見たいかい?」と。ハビは答えた。「うん」と。

    レースを見ることができ、ハビエルの心の傷も癒えたかのように思えたが、トラウマは依然残っていた。今でも、事故で亡くなった双子の兄弟のリカルドの死を、どうしてもハビは受け止められない。そして、彼は今でも心の中でリカルドに、「頑張れ、頑張れ」とエールを送っているという。


  • ハビエルの兄弟リカルド オチョア が広場になる ( 2001.6.22)

    去る2月15日にマラガで交通事故で亡くなった元ケルメのライダー、リカルド・オチョアの名前を冠した広場が今日から登場する。場所は彼の生まれ故郷であるベランゴ。彼が初めてペダルを漕ぎ出した場所だ。これには、市が後押しした。新しい「リカルドオチョア広場」は新設の広場で今日の現地時間19時からオープンする。

    記念式典には、彼の父親のリカルド(注意:リカルド・オチョアの父親はリカルド・オチョア。同姓同名。同じ名前を双子の息子の片方につけた。)と兄のアンドニが出席する。ハビエルはまだリハビリの最中ということもあり、残念ながら欠席だ。


  • メモリアル・リカルド・オチョアにハビエルが出席、オチョアと親しいベロキ、ガルデアノもレースに参加 ( 2001.8.1)

    以前お伝えしたメモリアル・リカルド・オチョアが、31日に行われた。このレースの本来の名前は、「エル・シルクイト・デ・ヘチョ」。バスク地方のクラシックレースなのだが、今年2月15日のリカルドの事故死の後、「メモリアル リカルド オチョア」と第2の名前を授けられた。

    というのも、このレースの主催者であるプンタ ガレアは、小さなクラブチームも所有している。そして、この地方出身である双子のオチョア兄弟が初めてペダルを漕いだのが、このクラブだったのだ。

    今回のレースは、事故からかなり回復したハビエルを名誉監督として招き入れた。但し、まだ情緒を乱すような外因は避けた方がいいという判断から、彼はこのレースを始終車の中から観戦することになったけれど。

    プンタ ガレアは、このレースからゼッケンNo.1を永久欠番とすることを決意した。この背番号は、オチョアの父親にレース後引き渡された。ハビエルが名誉監督として任命されたことを記念したプレートと一緒に。この記念すべきレースに、かつてケルメで親友だったJPヨレンテが駆けつけた。

    カベヨ、ビシオソ、今やドイツのコアストチームで走るエスカルティンも来た。それだけじゃない、ツールの疲れがまた残っているであろうベロキ、ガルデアノ、エチェバリアも。。選手たちは、忘れてはいなかった。かつて一緒に戦った同胞、オチョア兄弟のことを。


  • メモリアル・リカルド・オチョア 続報 ( 2001.8.1)

    メモリアル・リカルド・オチョアこと、ヘチョのレースは感動的だった。オチョア兄弟が以前 住んでいたベランゴからレース地までは僅か3キロ。以前から、この地域では、オチョア兄弟はヒーローだった。健康的で、どこかひょうきんな双子の兄弟は、いつもよく目立っていた。

    昨日、このレースが行われた時、近所の人々は、こぞってレースを観戦した。リカルドが亡くなり、ハビエルが大怪我をおったあの2月の事故は、これらの人々に衝撃を与えていた。2人を実際に知らない人たちにまでも。だから、ハビエル出席のもとに行われたこの「メモリアル リカルド オチョア」。 レースは、さながら、ツールのような賑わいぶりだった。

    オチョアの両親とハビエルの彼女ベリ、故リカルドの彼女インマは、こうした人々の愛情溢れる声援に、涙を抑えることができなかった。とはいっても、レース自体は、実際とてもなごやかなムードに包まれていた。

    無二の親友であるケルメのJPヨレンテは、「ツールのチーム表彰を受賞したとき、ハビエルにも同席してほしかった。」と言った。当のハビエルはというと、幌を下ろしたスポーツカーに乗り、人々の拍手を受けていた。周囲の家族は、彼が疲れないようにかなり気遣っていたのだが、ハビエルの明るい表情を見て、兄のアンドニは、「良かった。ハビにとっても、とてもハッピーな1日になった。」と安堵の表情を浮かべていた。


  • オチョア退院 ( 2001.9.2)

    2月15日に瀕死の重傷を負ったハビエル・オチョアが、リハビリのため入院していた病院から遂に退院した。彼は、傷の治療を専門にしていたバラカルドにある赤十字病院から、このリハビリセンターに5月11日移送された。

    そのときは、まだ目もうつろで、生気もなかった。しかし、その後 病院から外出許可もおり、レースにも観客として招待され、みな前に姿を現し、順調な回復振りを見せていた。リハビリセンターでは、彼は精神、肉体面での訓練を4ヶ月にわたって受けた。7月には、週末には自宅に戻ることも許可された。しかし、「完全な回復」という意味では、まだ長い期間を要するという。

    専門家の中には、一生かけての治療になるだろう、と述べた人もいた。退院しても、それで終わりというわけには行かないらしい。いつも一緒にいたリカルドの死や、自転車に対するトラウマという大きなハードルもある。彼がサドルに腰をかける日は、来るのだろうか?


  • ケルメ、なんとハビエル・オチョアと契約更新!そして、ハビがケルメのヴエルタ打ち上げに抜き打ちで現われた! ( 2001.10.4)

    スペインの新聞記者が、ケルメのヴエルタ打ち上げに同行した。そして、打ち上げの場に、ハビエル オチョアが突然姿を現したのを目撃した。その時、記者の脚は震えたという。

    ケルメのメンバーも、同様に感無量の思いで、ハビエルの登場を迎えたのではないだろうか。右脚を少しひきずって、松葉杖に支えられて現れたオチョア。飛行機の関係で1時間遅れではあったものの、両親と彼女に付き添われ、自分の足で、バスク地方からマドリッドの会場までやって来た。

    彼を先導したのは、事故の前も後もずっと親友でい続けた同僚のハビエル・パスクアル・ヨレンテだった。オチョアのために会場に花道を作るそのシーンは、オタカム(ツール2000山岳ステージ)のヒーロー オチョアを迎えた場面の再現そのものだった。

    セビーヤを頭に、歓声、拍手がわきあがる中、ハビエル コールが始まった。「ハビ、ハビ、ハビ!」そして、ベルダ監督が叫んだ。「僕らはヴエルタでは優勝できなかったけど、最高の勝利を今日ここで手にしたんだ!」

    ハビエルは、その間、テーブルに目を落として、しばし、みんなの視線をはずす場面が見受けられた。高ぶる気持ちを抑えようとしていたのだ。以前治療を受けていたリハビリセンターで、メンタル部分の回復のために、「感情のコントロールをするように」と、注意事項を言い渡されていたからだった。そして、席を立ったハビエルは、こうみんなに言った。「ヴエルタは、とても楽しませてもらった。ありがとう。」

    終始笑いに囲まれた宴だったが、そんな中、ハビエルが悲しい表情をした瞬間があった。ケルメのマネージャーであるホアン マスが、亡くなったリカルドのために15秒間の黙祷を捧げた時だった。母のマリアは涙をこらえ切れなかった。それまでずっと感情を抑えようと冷静にしていたハビエルの目にも涙が浮かんだ。切っても切れない仲良しだった双子の兄弟に起こったことを、今や彼は完全に認識していた。どんなにリカルドがいなくなって、寂しい思いをしているか、ひしひしと伝わる場面だった。

    そんな湿った気分を変えるかのように、黙祷直後にセビーヤが言った。「リカルドも天からみんなのことを見ているよ。今日僕らと一緒にこの宴会を楽しんでいるだろう。」悲しみを振り払うかのような、元気付けの一言だった。

    後はもとの明るい打ち上げに戻り、会場は再び笑い、歓声、に包まれた。デザートが配られるころ、ハビは上席からみんなのところをまわった。パスクアル、カベヨ、ビタル。。かつての盟友との語らいの中、みんなの目はきらきら輝いていた。この夜 ハビエルがみんなに与えてくれた感動は大きかった。

    でも、ハビエルに、チームが贈った言葉と配慮も、同じくらい感動的だった。会の途中、ベルダ監督が言った。「もしも、3月が無理でも、4月、いや6月でもいい。とにかく再び走れるように、みんなが祈ってるよ。ハビをこの場に迎えることができたこと、それは、今日の打ち上げを通して最高の出来事だった。」と。

    チームがハビの奇跡的回復をどんなに喜んでいるのか、ひしひしと伝わってくる。そして、更に夕食後、チームのパトロンであるクイレス氏が発表した。「ハビエルの契約は今季いっぱいで切れることになっていたけれど、2002年、チームはハビの契約を延長を決定した」と。ケルメの英断に、思わず拍手。ケルメはヴエルタで優勝はできなかったけど、優勝では達成し得ないほどの感動的な宴。みんなの歓声は、夜中の2時まで続いた。(上記のおおもとのニュースソースは、新聞マルカ。)


  • オチョア記者会見 ( 2001.11.1)

    このたび地元スポーツ紙に招かれて、オチョアが記者会見にのぞんだ。兄のアンドリニに支えられて登場したオチョアは、周囲の大歓声に迎えられた。そして、それに応えるように自力で歩いては見たものの、彼にとっては、余りたやすいことではなかったようだ。毎日3時間のリハビリを今も欠かさない。土日は休みだ。

    2003年くらいまでは自転車に乗ることはできないかもしれないが、いずれ自転車に乗ることを考えている。一番楽しかったことは、マドリッドでかつての仲間たちと一緒にごはんを食べたこと。辛いのは、TVでレースを見ること。自分で走れないのが辛い。現在彼は頭部に血腫がある。部位的に手術が困難であるため、そのままとなっている。しかし、2年も経てば自然治癒するものと見られる。


  • ケルメ、ハビエル・オチョアとの契約を1年更新 ( 2001.12.20)

    ケルメが、オチョアとの契約を、もう1年更新した。といっても、選手としての条件云々ではなく、オチョアの社会保険継続を主眼とした契約なのだが。

    事故から10ヶ月余りが経った。オチョアの挑戦は、その間ずっと変わらない。いつの日か、またロードに復帰すること。といっても、ハビエルの焦点がプロとしてのレースを捕らえているのか、或いはアマチュアレースをめざしているのか、或いはレースでなく単に、バイクツーリズム程度を念頭に置いているのか、誰にもわからない。オチョアは、着実に回復しつつあるものの、その歩みは決して早いものではない。今も、まだ、よどみない会話を保つには、苦労している状況だ。

    しかし、オチョアにとって、最愛の兄弟を失った原因でもあるバイクへの復帰というのは、ある種ひとつの区切りとしてのハードルなのだ。そのハードルが高いことは承知している。でも、どうしても乗り越えなければならないハードルなのだ。つい先日、オチョアは20mだけバイクで走ったという報道があった。mをkmに変えるには、まだ時間がかかることだろう。


  • オチョア兄弟の事故を招いた運転手に判決: 罰金4万円と5年以内の免停だけ ( 2002.1.17)

    昨日のスペインの新聞各紙は、オチョア兄弟の事故を引き起こした運転手に対する判決を大きく扱っていた。マルカやアーエスなどの記事から、その内容を拾ってみた。

    あと1ヶ月で、あの事故から1年が経つ。2001年2月15日。南スペインのカンピヨスからマラガまでを結ぶ国道A-357で事故はおきた。トレーニング中のリカルドとハビエルの双子の兄弟が、ボルボ940に轢かれた。運転手は、マラガ大学に勤めるセバスチャン フェルナンデス。リカルドはヘリコプターで運ばれるも、ほぼ即死の状態だった。一方、別の病院に搬送されたハビエルは、一時の危機的状況は脱したものの、未だリハビリは続く。

    今回、マラガの法廷でフェルナンデスに下った判決は、罰金約4万円の罰金と、最高5年の免許停止という略式命令だった。事故は不注意によるものと見なされ、故意による犯罪ではないと。プロ自転車選手協会(ACP)は、この判決に不服を申し立て、上訴する方針だ。

    ACPの弁護士トリヴィーニョ氏も、この判決に憤慨している。事故には、スピード違反に加え、悪質な要素もあり、こんな軽い不当な判決はない、と。実際、2人り蛟いた後、そのまま2人を引きずって75メートル程 走り続けた。その後、運転手は、事故現場から300メートル地点のガソリンスタンドに、何事もなかったかのように立ち寄ったという。

    ACPのみならず、オチョアの家族も、この判決に、やりきれない思いでいる。リカルド、ハビエルらの弟にあたるアンドリニは、こう語った。

    「リカルドはもう帰ってこない。そして、ハビエルも、僕ら家族も、みんな人生をめちゃくちゃにされた。でも、今回のことが、何らかの貢献となればいい、そういう気持ちもあった。サイクリストに注意せずに走ると、いかに危険か、運転手は道を一緒に走るサイクリストに対して、どんな責任があるのか、そういったことを自覚する いい機会になってくれればいいと思っていた。

    なのに、今回の判決。罰金に免停だって?これじゃ、ただの(事故を起こさなかった場合の)飲酒運転と同じじゃないか?運転手は、控えめに路肩を走行していた2人り蛟いて、さらに75メートルも引きずって走り続けたんだよ。リカルドをボンネットに乗せたままで。。。これで、罰金4万円というのが、僕には到底納得できないよ。」

    故意と過失では、その後の対応が大きく違ってくる。傍若無人な運転は、故意と呼ばれる行為とは見なされない、というのが親族にとってはやりきれない。


  • オチョア、国王から表彰される ( 2002.1.26)

    ハビエル・オチョアは、今も事故の後遺症と戦っているが、また再び自転車に乗りたいと思っている。ただ、路上に出られるかどうかは、自分の決断だけでは決められない。周囲のアドバイスなどに耳を傾けながら、様子を見ながら判断することになろう。それがいつの日になるのか、まだわからない。

    さて、このハビエル、スポーツに関して功績のあった選手に贈られる銀メダルを、国王から授与された。表彰されたのは70人余り。でもその中で、もっとも大きな拍手をもって迎えられたのが、このハビエルだった。そして、同じ賞が、亡くなったリカルドにも授与され、これは、父のリカルド(息子と同じ名前)が受け取った。国王と近づきになったこと、宮殿に招かれたこと、などハビエルは感激している様子だった。

    更に、国王はハビエルに、「君が走っている姿は、何度も見たよ。早く良くなってほしい」そう声をかけてくれたという。次回ツアー オブ バスクには、ケルメがハビエルを応援役で招く予定。そう、ハビエルの故郷そして現在の住まいはバスク地方なのだ。


  • オチョアあの事故から丁度1年:一時は絶望的、62日間の昏睡状態、生命維持装置を決してはずそうとしなかった父に感謝。 ( 2002.2.15)

    忘れもしないオチョア兄弟の交通事故から丁度1年が経った。スペインの新聞社アーエスが、近況を確認するためにハビエルのもとを訪ねた。母親のマリア パラシオスさんは言った。

    「ハビエルが一日一日良くなっていくのに励まされる。息子を一人失ったけど、でもハビエルの中にリカルドを見出すことができるのが救い。二人は双子だったからね。ハビエルは本当に奇跡だった。彼も死んでしまうと思った。その後暫くたってからは、植物人間のままでいるのかな、と。水腫が6つも脳にあったから、前のように戻れないと覚悟はしていた。それが、回復していって、どんなに私に力を与えてくれたことか。。」

    では、下記にハビエル自身の口から語られた、ツール2000のオタカムステージのエピソード、そして現在の状況などを。

    ―現在の生活は?

    「8時半に起床。ジムに行って腕と足の筋トレと跳躍。その後言語矯正師と、精神科医とのセッションがあって、午後はガレージで2時間 固定式自転車を漕いでいる。寝るのは11時。」

    ― 今の状態から脱出したいと思ってる?また自転車に乗れるようになるかな?

    「このままでは嫌だ。走ることもできないし、外に出るにも、人の手を借りないといけない。ガレージの中でだけならバイクに乗ったことがある。歩くのに毛がはえた程度走れた。暑くなる6月頃には路上に出たい。寒いとちょっと出たくないな。ただ、慣れるまでちょっと怖いと思う。」

    ― 回復して一番嬉しかったことは?
    「車椅子から降りて、松葉杖で歩けたこと。」

    ― 完全な回復は可能だろうか?
    「重要なのは、以前と同じ生活にはもう二度と戻れないということを自分自身に言い聞かせること。もちろん、完全回復は目指すけれど。」

    ― オタカムのステージのことは覚えてる?

    「全て覚えてるよ。ベルダ監督が、ちぎれないように気をつけろと指示をくれたこと、それから、デュランとマッタンらとともに逃げたこと、それから一人で逃げたこと、表彰台でアームストロングが僕に話し掛けてきたことも覚えている。ランスは僕にこんな風に言ってくれたんだ。

    もしも、僕の逃げが成功せずにアームストロングらと一緒に先頭を走っていたとしても、オタカムでの勝者はいずれにしても僕だっただろう、と。でも、あの時 彼は僕の42秒後にゴールしていたからそう言ったまでで、実際僕が本当にランスに捕まっていたら、いずれ先を越されて僕は絶対に勝てなかったよ」。

    ― 人生にチャンスは2度あると思う?

    「うん。僕だってリカルドのように死んでいたかもしれない。昏睡状態は62日間続いていたからね。僕は父に感謝している。決して生命維持装置をはずさないでくれ、と医師団に言ってくれたんだ。誰もがもう僕の命は終わると信じていたその時にも。だから今、僕はここにいる。」


  • オチョアあの事故から丁度1年 その2: ハビエルの人工呼吸装置をはずし、葬儀の準備を薦めた医師 ( 2002.2.15)

    2001年2月15日。バスク地方のオチョアの両親のもとに一本の電話が入った。リカルドとハビエルの双子の兄弟の片方が死亡、もう片方が重態という知らせだった。しかし、両親にも、病院関係者にも、一体どちらが亡くなり、どちらが重態なのかわからなかった。顔が似ていて区別がつかないためだ。

    知らせを聞いて、父は訳もなく壁をぶんなぐった。一方、事故のあったマラガでは、オチョア兄弟の片方の彼女が、ふたりを判別するために病院に向かった。彼女は判別の鍵を知っていた。ハビエルの方は、胸にほくろがある。

    亡くなったリカルドは、その直後に開催のブエルタ・ア・アンダルシアの出場登録をしていた。しかし、リカルドの死で、ケルメはレース出場自体をとりやめた。誰も走る気力が湧かなかった。

    1年経った今、ハビエルが少しずつ、自分の言葉で心境を語り始めた。リカルドがいなくて、もう二度と一緒にトレーニングをすることができない、もう二度と一緒に映画にも、旅行にも行けないんだ、それを自身に言い聞かせて、その状態に慣れるように努力していると。

    無常にも自分の人生は続いていくのだと実感していること、事故を起こしたボルボの運転手には、悪意は感じないが、それでも一生罪の意識を味わってもらいたいと思っていると。

    また、ハビエルは、意識が戻った後、マラガの病院から途中でバスク地方の病院へ転院しているが、マラガの病院では、相当ひどい思いを味わっていたことが、このたび判明した。

    マラガの病院のICUでハビエルの昏睡状態が続いていた時、医師は、両親に、「なぜ不必要に延命行為をして、病人を苦しませるのか?」と問いただし、「ハビエルの葬式の用意を始めるように」、と告げたというのだ。

    両親も、くじけそうになりながらも 彼の生還を信じた。そして、昏睡後60日を過ぎてから、奇跡が起こった。ハビエルが意識を取り戻したのだった。しかし、病院に対する家族の不信を引き起こした事態が更に起きた。院内感染により、ハビエルは片肺の切除を余儀なくされたのだった。

    先日スペイン国王と面談したハビエル。国王からどんな言葉をかけられたのかと聞かれて、「TVで見るよりもハンサムだね」と言われたそうだ。また、彼としては、「プロの自転車選手として再びカムバックするという希望は捨てていない。時間はかかるけれど、不可能ではない、と思っている。

    でも、もちろん、チームケルメがノーと言えば、「諦める」、とも。事故の後、スペインでは道路交通規制法を改正し、サイクリストを保護しようとする動きがある。これについてハビエルは、「それは、プロ、アマ関係なく一個の人間としての権利だ。自動車を運転しているのが人間なら、自転車に乗っている人も人間。車の運転手は、自転車をモノとして扱わないで欲しい。自転車イコール人間なのだ、ということを忘れないでほしい。車と自転車の事故の場合、サイクリストは、とても弱い存在なのだ。」と述べた。

    現在、少々ふっくらしたハビエル。マラガの病院からストレッチャーで移送される時は、視線は宙を漂い、まだ完全に病人の形相だったが、今ではあの時の面影は全くない。彼の満面の笑顔も復活した。将来マラガに別荘を建てるのが夢と語るハビエル。医師によると、彼の回復力の源は、強い精神力だという。それは、自転車競技の中で培われた精神力なのかもしれない。
    (上記内容は、2月15日付けスペインのスポーツ新聞各紙を総合して作成。)


  • バレンシ・アツアー(ルータ・デル・ソル)がオチョア兄弟事故現場を通過し、兄弟の無二の親友が優勝! ( 2002.2.22)

    2月20日のバレンシアツアー第4ステージには、リカルド・オチョアが車に轢かれて死亡した事故現場がコースに含まれていた。スタート地点のルセナから141.6キロ地点だった。第4ステージ区間優勝を飾ったハビエル・パスカル・ロドリゲスは、レース後、「あの事故現場の地点を通過したとき、胸にぐっと熱くこみあげるものがあった。」と語った。

    ゴールに入った瞬間、天を指差しオチョアに合図を送ったロドリゲス。ケルメ時代、彼はオチョア兄弟とは無二の親友で、互いの家を行き来した仲だった。事故のあった2月15日から1年後、ロドリゲスは、堂々と胸を張ってリカルドに優勝報告をしたに違いない。彼はゴールしてから、リカルドの彼女インマと抱き合い、そして、ポイント賞のツァベルは、オチョアの父にポイントリーダーの花束を捧げたのだった。

    ロドリゲスが、優勝を捧げたのは、実はオチョアだけではなかった。他に2人、優勝を捧げた人がいる。まず、チームのメカニックであるカルロス・ビダレス。彼の奥さんアナが、先日亡くなった。それから、最近亡くなったジュニア時代の監督だったマンサニヨ氏にも、優勝を捧げた。


  • ハビエル オチョアが自転車レースに復帰出場 ( 2002.10.14)

    昨年2月にスペインのマラガでトレーニング中に車に轢かれたハビエル・オチョア。一緒にトレーニングしていた双子の弟のリカルドは亡くなったものの、ハビエルはリハビリも順調に進み、遂にこの日がやってくることになった。クリテリウム・デラ ・コムニダ・バレンシアに出場することになったのだ!開催日は来る11月10日。といっても、どういうレベルでレースを走れるのかは未知数だが。


  • ハビエルオチョア復帰作戦 続報:ボテロからの激励 ( 2002.10.15)

    事故から21ヶ月。11月10日のクリテリウム・デラ コムニダ バレンシアに出場することを表明したハビエル オチョアの続報。

    ケルメ コスタブランカに所属していたオチョアは、今、コスタブランカ地方にあるバレンシアからのサポートを受けている。バレンシアでのクリテリウムに出場することになったのも、バレンシア州の取り計らいがあった。

    そして、11月10日のクリテリウムの前に、まずはこのほど、「生きる力」と題した展示会がバレンシア地方で開かれ、オチョア兄弟の写真、記念品、トロフィーなどを通して彼らの軌跡を分かち合う場が設けられた。会場にはハビエルと両親、兄弟のアンドニ夫婦が出席し、除幕式が行われた。

    この式典の最中、突然、ハビエルに1本の電話がかかってきた。先日世界選手権ITTを制したサンチャゴ ボテロからだった。ボテロは、今回バレンシアでのレースで自転車に乗ることを決意したハビエルを激励したのだった。一方でハビエルは、ボテロに、世界選手権での優勝お祝いの言葉を述べた。

    クリテリウムが開かれるのは11月10日。それまでに、ハビエルは、どの程度自転車を乗りこなせるか未知数のところもあるが、それまでリハビリを精一杯行っていく。「プロトンに混じって走ることで、プロ時代の記憶が蘇ると思う。かつての同僚に囲まれて走る時の気分は、きっと古巣に戻った感覚なんじゃないかな。」ハビエルは語った。

    ここで、2001年2月のオチョア兄弟の事故のニュースを読みそこなった方のために、下記にオチョア事故の経過を簡単にまとめます。

    2001年2月15日、双子のオチョア兄弟はマラガ付近の国道をトレーニングしていた。路肩を走行しており、彼らには何の非もなかった。しかし、1台の無謀な運転が、1人の命を奪い、もう1人を重態にさせた。運転手はマラガ大学上層部。亡くなったリカルドは、数メートル車にひきずられていた。ヘリコプターですぐに運ばれたリカルドは、ほぼ即死。別の病院に収容されたハビエルも、1ヶ月昏睡状態が続く。轢いた犯人のマラガ大学幹部は、2人が有名な自転車選手で、特にハビエルが前年のツールドフランス、オタカムのゴールで優勝した選手だったということを知って愕然とする。

    両親さえも、ハビエルの死を覚悟した。母は泣いた。「(リカルドに続いてハビエルまで亡くなって)2人の息子が天に召されていくのだ」と。

    しかし、3月21日。それまで人工呼吸器をつけていたハビエルが目をあけたことが伝えられた。まさにそれは奇跡だった。でも、その陰にはガールフレンドの努力があった。毎日ハビエルに話し掛け続けた。話し掛けると、ハビエルの脈拍が速くなり、何らかの反応があると思われたのだ。やがて、痙攣なのか自発的かは不明だったが、とにかく両手を動かすようになり、予断は許さないとしながらも、「深い昏睡状態」から、一歩だけ進んで、「引き続き警戒のいる昏睡状態」になったハビエル。

    やがて徐々に意識が戻り、人工呼吸器がはずれた。とはいえ、マラガの病院を退院し、地元のリハビリセンターに転院した日の彼は、命は取り留めたものの、ストレッチャーに乗せられ、目は空を仰ぎ、生気を失った表情をしていた。リハビリには相当時間がかかりそう、そう誰もが思った。徐々に公の場に姿を現るようになったハビエルだったが、それでも彼がサドルにまたがるのは まだ遠い先のことに思われた。

    それが事故から21ヶ月目。遂に彼が自転車に乗ることが実現しそうな気配になった。


  • ハビエル オチョア、完走をめざす ( 2002.10.18)

    11月10日のコムニダバレンシア出場を決め、自転車レース復帰を宣言したハビエル。本人が、レースにあたり心境を語った。「怪我が深刻だったので、徐々にリハビリをしてはいるものの、やはりプロ並みに走るのは、すごく難しい。だから、変に期待してはいない。パラリンピックのスポーツ選手が戦うみたいな感じかな。とにかく、僕は自転車に乗って走りたい。走るだけで嬉しいんだ。」

    ハビエルの練習時間は現在30分から1時間。どの程度走れるかわからないけど、とにかく、最後まで諦めずに走る、そう彼は語った。


  • ハビエル オチョア、プロ最後のレース ( 2002.11.11)

    ハビエル・オチョアがみんなの前で自転車に乗った。クリテリウム デラ コムニダ バレンシアに参加したオチョアは、この日彼を見守る多くのファンの前で走る姿を見せた。

    「最初は、ちょっと危なっかしかったけど、その後は問題なく走れた。多くのファンの人たちの声援が僕の背中を押してくれた。」この日彼は、ずっと両親と友人らに付き添われて走った。

    思い返せば2001年2月15日。トレーニング中の交通事故で双子の兄弟リカルドを亡くし、自らも62日の昏睡状態となり、一時は両親さえも「彼は神のもとに召されるのだ」、と悲観的なコメントを語ったこともあった。それが、軌跡の回復と必死のリハビリで再び自転車に乗れる日が来ようとは。

    しかし 彼がプロと一緒に走るのはこれが最後。ケルメとは完全に決別し、今後、もし自転車レースを続けるとしても、パラリンピックか一般市民のレベルでの参加となる。

    「自動車のドライバーが サイクリストたちを邪魔者扱いする限り、怖くて外で走ることができない。」と、ハビエルは今も路上で走ることへの恐怖が拭い去れない。もっともなことだろう。

    バレンシア出身のアンヘル・カセロは、ハビエルとともにレースに出た後、感極まった様子で、次のように語った。「今日はハビエルにとって特別な日だ。彼は人生で一番重要なレースに勝ったのだから。」と。


  • オチョア事故の際、直前まで一緒にトレーニングをしていた選手がいた。彼が初めて口を開いた。 ( 2003.2.17)

    2年前のあの事故の日、オチョア兄弟と一緒にトレーニングしていた選手があの日のことを語った。運命を分けた「あともう1周」

    双子のオチョア兄弟がトレーニング中に事故にあったのは丁度2年前の2001年の2月15日。リカルド オチョア(当時ケルメ)は亡くなり、ツール2000 オタカムステージの勇者ハビエル(当時ケルメ)は長期にわたり昏睡状態に陥った。しかし、後遺症は多少残ったものの、奇跡的に一命を取りとめ、今もリハビリに励んでいる。

    当時オチョアが事故にあったのはマラガ近郊で、運ばれたのもマラガの病院だった。この時、実はマラガ在住のアマチュア選手が、2人と一緒にトレーニングをしていた。

    しかし、彼は、オチョア兄弟が事故に遭うマラガ近郊のカルタマの手前で2人と別れたため、事故に巻き込まれずに済んだのだった。彼の名前は、ホセ アントニオ ロペス ヒル。そして、彼は今年バネストからプロデビューを果たした。

    「僕らはあの日、一緒に何度も同じコースを周回した。あのままずっと一緒に走っていたら、僕も死んでいただろうな、と思ったりもするし、逆に、僕が一緒だったら、彼らの事故は避けられたんだ(その理由は後述)、という思いが、いつまでたっても僕の頭から離れなかった。」

    オチョア兄弟はスペインバスク地方の出身だが、冬の間はトレーニングにマラガに来ていた。温暖だから、という事情だけでなく、2人とも偶然に彼女がマラガの人だったからだ。その関係で、オチョア兄弟はその頃まだアマチュアだったマラガっ子のホセアントニオと知り合いになり、トレーニングを一緒にし、その後一緒に連れ立って遊びに行ったりしていた。

    ホセアントニオ:
    「2人が事故に遭ったのは2月15日。そして その前日はバレンタインデーだったことから、3人一緒に彼女連れで夕食を食べに行ったんだ。夜、家に帰ったのはとっても遅かった。だから翌朝、一緒にトレーニングしたものの、僕は疲れていたから、もう家に帰ることにする、と2人に言ったんだ。

    オチョアはあともう一周だけして、オヘンまで行ってから帰る、そう言った。僕はといえば、マルベーヤの手前で、家にそのまま帰ることにした。でも、もし僕が一緒だったら、疲れた僕のペースを気にして 絶対にスローペースで走っていただろう。或いは、途中で休息していた可能性もある。

    或いは、事故を起こしたボルボの運転手も、(オチョアの2人に気づかなかったと言っていたが)3人だったらば、僕らのことが視界に入っていたかもしれないんだ。とにかくあらゆる可能性が脳裏をよぎるたび、なぜあんな最悪の結果になったのだろうと、悲しい運命に僕は打ちのめされた。オチョア兄弟のことは大好きだった。自転車選手としてだけでなく、個人的にも仲良くしてもらった。」

    ホセアントニオがオチョア兄弟と一緒に直前までトレーニングをしていたという事実は、実は今まで全然知らされていなかった。彼が当時のことを話せるようになるまで、時間がかかったのだろう。プロ入りして、更に事故から2年経って、やっとこうして事故の日のことが、漸く語れるまでに心の傷が少しずつ 癒えてきたのかもしれない。


  • ハビエル オチョアがレースに出場 ( 2003.5.21)

    トレーニング中の事故で兄弟を亡くし、自らも1ヶ月以上の昏睡状態となったハビエル・オチョアがレースに復帰する。5月24日のパラリンピック大会だ。

    19:25、3000人のサイクリストとともにスタートを切る。彼はツール2000、オタカムで劇的な区間優勝をあげたあと、翌年2月にマラガ近郊で車に轢かれ、一時は生存が危ぶまれたものの奇跡的に一命をとりとめ、今もリハビリにんでいる。

    主催者側のコメントもいい。「彼の出場はとても嬉しい。レースを盛り上げるというこちら側のエゴイスティックな理由からだけではなく、彼が復帰できたことに対し、彼や家族同然に喜んでいる。また、スポーツを愛する人たちにとってもこれは朗報だし、また、障害のある人がちが超人的な力を出せるということを証明する、いい機会だ。」


  • あの人・あの言葉 ( 2003.6.16)

    オチョア兄弟の事故を受けて、あの人たちがこんな言葉を漏らしている。

    M・インドゥライン:「自分の子供は絶対に自転車選手にはしたくない。危険すぎる。」

    トンコフの妻ダリア(元ヴエルタ・ポディウムガールで弁護士):「夫がトレーニング中、外で救急車の音がすると、ドキっとするの。いつも事故に遭いません様に、と祈っているわ。」


  • ハビエル オチョアがアテネのパラリンピック目指してトレーニング開始 ( 2003.7.31)

    2000年のツール、オタカムのステージでアームストロングを破ってステージ優勝したハビエル オチョア(現在28歳)。2001年2月15日の事故で自転車選手生命は絶たれたかと思われたが、パラリンピックの自転車競技に出場することを現在目標に、トレーニングに励んでいる。

    「アテネのパラリンピックで金メダルを取ることを目指して、今頑張っているんだ。パラリンピックの自転車競技のレベルはよくわからない。難しいだろうけど、最大限頑張りたい。」

    彼は、5月から自転車のトレーニングを開始し、身障者用の自転車レースに出場するようになった。6月にはカンタブリア地方で行なわれたレースで2位に入った。しかしそのときの優勝者というのがヨーロッパチャンピオンと世界チャンピオンを制覇したことのあるモーリス選手だったので、オチョアの2位というのは大いに今後に期待がかかる。

    「まさか、あのレースにモーリスが出るとは思わなかった。あの時僕はトレーニングを開始してまだ間もなかった。毎日20キロ程度しか走っていなかったんだ。でも、6月のレースに出て以来、やる気が出てきた。今では70から80キロ走ってるよ。ヨーロッパチャンピオンシップに向けて、準備をしている。そして、アテネ五輪パラリンピック出場選手に選出されるよう、頑張るよ。」

    事故の後遺症で、トレーニングをすると骨と背中にまだ痛みが残り、そのために、時々バランス感覚を失うことがある。それでもハビエルは、今、人生の新しい目標に向かって漕ぎ出した。


  • ハビエル オチョア銅メダル!! ( 2003.9.15)

    以前お伝えした通り、ハビエル オチョアは アテネのパラリンピック出場に向けて自転車競技に本格的に取り組むことにした。そして、昨日、2003オープンヨーロッパ選手権障害者自転車競技大会のITTでなんと銅メダルを獲得した。彼の得意なロードレースは21日日曜日に行われる予定で、こちらの結果が楽しみになってきたぞ。

    今回のITTは、障害部位ごとに部門が分かれており、オチョアが出た脳にハンディキャップ持つ部門のレース以外に、身体ハンディキャップ部門のITTでも、スペインは銀と銅メダルを獲得した。


  • オチョアの銅メダル:ケルメのベルダ監督も「感動した」 & セビーヤのコメントはちょっと悲しかった ( 2003.9.16)

    チェコで開かれているハンディキャップのある人の世界選手権で、ハビエル・オチョア銅メダルを獲得した。ITT部門で銅メダル。ブレイン系の障害等級3級カテゴリーではトップのタイムだった。

    いくらハビエルが元プロ選手だからといって、練習を始めてわずか数ヶ月。初めての大舞台で銅メダルなんて、普通は達成できることではない。実際、金メダルを獲得した選手も、「元プロだから、数年後には表彰台まで到達するだろうとは思ったが、まさかこんなにすぐにここまでやるとは」と脱帽した。また、自転車レース中に片足切断して、フィジカルなハンディキャップの部門でレースに出場したロベルトアルカイデ選手も、銅メダルをとって、互いの勝利を喜んだ。

    今回のハビエルの表彰台について、ケルメの同僚や監督が喜びの声を届けた。最新の新聞マルカから。

    ベルダ監督談話:「脳死と隣り合わせの状態まで行って、その後ここまで前進するとは いかに彼が犠牲を払って頑張ってきたかがわかる。精神的、肉体的屈強さがなければここまではできないだろう。」

    セビーヤ談話:「ここ数ヶ月 彼とはしゃべっていなかった。でも、彼がまた再びバイクに乗り始めたことは知っていた。最後に彼としゃべった時、ハビエルは、バイクにまた乗りたいと夢を語っていた。でも、同時に悲しそうだった。本当は、事故に遇う前みたいに、僕達と一緒に(プロとして)走りたいんだよね。」

    「もしも今出場しているヴエルタで区間優勝できたら、勝利を多くの人に捧げたいけど、とりわけハビエルオチョアに捧げたい。ここまで頑張った彼と分け合いたいんだ。」


  • ハビエル オチョア ロードの成績、意地で探しました。結果は金メダル。 ( 2003.9.24)

    9月14日、アテネ パラリンピックの選考会を兼ねたオープン ヨーロピアン チャンピオンシップのITTで銅メダルを獲得したオチョア。21日のロードの結果がどこにも見つからず、2時間以上かけて、意地でやっと見つけました。

    結果はなんと 金メダル。それにしても、銅メダルだったTTの結果は あちこちのスペインの新聞のサイトに出ていたのに、今回のロードの結果はスペインの新聞には全く出ていなかった。みんなヴエルタで忙しかったのかな?

    42.6キロのロードレースで 彼のタイムは1時間12分58秒。実はこれを上回る1時間12分56秒という結果を出したUSAの選手がいて、オチョアの成績自体は2位だったのですが、どうやら一応ヨーロピアンチャンピオンシップなので、他国の参加は自由だけれど、メダルがもらえるのはヨーロッパ選手ということらしいです。

    従って、ヨーロッパ以外の選手の成績を入れた一般の成績は、参考記録として扱われ、オチョアはヨーロッパ選手の中で、金メダル。結果を見つけたサイトはこちら。但し、障害の程度によってカテゴリーがかなり細かく分かれているので、すぐには見つからないかもしれないけれど。

    ちなみに銅メダルだったオチョアのTTのタイムは1キロのTTで1分30秒077だったようです。金メダルは英国のケニー・ダレンで、タイムは1分21秒322。


  • ハビエル オチョア、チェコで獲得したメダルの数は合計7個 ( 2003.10.30)

    9月のチェコで行われたヨーロッパ選手権の詳報が出ていたのでお知らせします。なんとチェコでハビエル・オチョアは、以前お伝えした金と銅メダル以外にもメダルを獲得していたらしく、合計7個獲得したとのこと。彼が獲得したのは下記。

    金メダル:ITT(ヨーロッパ選手権レース)、ITT(ヨーロッパの枠をはずしたオープンレース)、ロードの合計3個
    銀メダル:3000mピスト(ヨーロッパ選手権レース)、3000mピスト(オープン)、ロード(オープン)、の合計3個\
    銅メダル:1000mピスト(ヨーロッパ選手権レース)で1個。


  • ハビエル オチョアがケルメに帰ってくる ( 2003.11.27.)

    ハビエル オチョアがケルメに帰ってくる。無論、プロチームメンバーとしてではないが、それでもケルメから年間350万円以上が支給され(給与というより、奨励金といった感じだが)、機材もケルメが面倒を見る。アテネのパリリンピックを視野に据えての援助だ。


  • メモリアル リカルド オチョア結果 ( 2003.11.27.)

    7月31日に行われたメモリアル リカルド オチョア(ハビエルの亡くなった兄弟を偲ぶレース。=シルクイトデヘチョ)。優勝はブックメーカーのファンデラーデン。ツールに出場したイリェスのアイトールオサは6位。そしてレース復帰を果たしたJベロキは、トップより13分6秒遅れでタイムオーバーに。

    しかしながら、第一弾レースとして、ベロキはシーズン前半よりもずっといい感触だったと語った。ベロキ、サウニエルの黄色いジャージがまだ少々見慣れない感じだが。


  • ハビエル オチョア アテネのパラリンピックを目指す ( 2004.8.1)

    ハビエル オチョアが現在の心境を語ったインタビュー記事がスペインのアスに新聞に出た。 彼はヨーロッパのパラリンピック、ロード、ITTで金メダル、ピストでもメダルを取った。アテネにも意欲を燃やしている。

    路上でのトレーニングは事故を思い出して怖くないか?という質問に、常に父親が車でついてきてくれるので、怖さは克服したという。

    今の自分にとって、一番大切なものは?と聞かれて「記憶(力)」と答えたハビエル。事故のことは一切覚えていないし、昔の友人に会っても記憶になかったりすることもある。また、靴をどこに脱いだかといったこともすぐに忘れてしまう。父親がいつもそばについていないといけない。

    ただ、オタカムで勝利した時のことは覚えている。とにかく疲れていたこと、ゴールするために、力を振り絞ったことが記憶にある。事故の時、複雑骨折を多数したため、関節がうまく機能しない。以前は、バランスを崩すので、後ろを振り向くことすらできなかった。

    今年はやっとツールをTV観戦する気になったものの、やはり苦い思いがしたという。特に同僚がレースに出ているのを見て、自分がなぜあそこにいないのだろう、という気になった。また、アームストロングを怖がって、だれもアタックしないように感じた、と。

    しかし、昏睡から復帰できただけでも、幸せだと思うことにしている。(当初の報道では、ほぼ絶望的な状況と見られており、母親も、息子2人を失った、と絶望的になっていたほど。しかし、ハビエルの彼女らがカセットで音楽を聴かせ続け、徐々に反応するようになった。)

    彼が事故にあって60日以上の昏睡状態から回復した様子が、テレビドラマ化される予定だ。


  • ハビエル・オチョア パラリンピック追い抜き予選で世界新記録 (2004.09.20.)

    ハビエル・オチョアが3kmピストの追い抜きで世界新記録を樹立した。17日付けのトクダネでお知らせした五輪の競技開催予定サイトを見てみると、ロードは確かに24日スタートだが、トラックは既に18日から始まっている。オチョア、今回事前に、多彩な競技に出ると言われていたがまさにそうだった。

    オチョアの3kmの予選タイムは3分57秒480。それまでの記録は2002年8月6日にUSAのダニエル・ニコルソンがドイツ、アウグスブルクの大会で出した4分13秒220だった。オチョアはそれを一気に25秒以上更新し、4分を切るタイムを出した。

    世界新記録(WR)・パラリンピック新記録(PR)は、アテネ五輪公式サイトのRecord brokenのページに出ており、オチョアの名前ももちろんしっかり入っている。

    そして20日の決勝戦で、英国のダーレン・ケリーに勝てば金メダルという状況だ。負けても銀メダルが確定。20日の決勝戦は現地時間14:10に行われる。今日の夜にはオチョアのメダルの色がわかるだろう。


  • ハビエル・オチョア パラリンピック追い抜き予選で世界新記録 (2004.09.20.)

    2004.09.20.(Mon)  ハビエル・オチョアが事故で昏睡状態になってからパラリンピック出場を遂げるまで オチョアがピスト個人追い抜き3km予選で世界新記録樹立した。決勝戦はまだだが、期待したい。

    思い返せば、ハビエルはグラスゴー・コーマ(昏睡)・スケールは5から奇跡的に蘇った。意識レベルを表すこのスケールは15満点で点数が低いものほど、意識障害が重いことを示し、最低点は3点。一般に8点以下が重症にあたる。以前、読者であり、ライダーであり、医師である人からこんなメールをもらった。

    「グラスゴー・コーマ・スケールが5というのはかなり厳しいですね。万が一助かっても重度の後遺症の問題もあり、これは悲観的な数値ですが、ただ、いくら5とはいえ、人間何が起こるかわかりません。医師としていろいろなケースを見てきて思うのは、時たま本当の奇跡を起こす人というのはあるんですよね。」と。

    その通り奇跡は起こった。医師によると、ハビエルの自転車選手としての強靭な肉体が、この奇跡を呼び起こしたという。これまでの記事紹介の中で、特にキーとなる記事は下記:

    2001年2月16日の一連の記事(事故概要)
    2001年3月22日:2月15日に事故に遇った後、ハビの彼女が彼を生還させるために工夫した記事。
    2001年4月21日:ハビエル奇跡の生還
    2001年9月2日:後遺症と精神的ショックで、自転車復帰は無理か?とさえ思われた。
    2001年12月20日:ハビエルが自転車に初めて乗った。走行距離20m。km単位で走れる日は来るのか?
    2002年1月17日:事故の加害者に判決。罰金たったの4万円と免停だけ!
    2002年1月26日:ハビ、国王の激励を受ける。「君が走っている姿は、何度も見たよ。早く良くなってほしい」
    2002年2月15日: ハビがインタビューに答えた。オタカムの時のことは全て覚えていた。監督の指示も。ランスが後で激励してくれたことも。「この日の展開が違っていたとしても、オタカムの王者はいずれにしても君だったよ」、と。
    2002年2月15日:マラガの病院で、医師が「無駄な延命行為はやめて、葬儀の準備をしろ」と両親に人工呼吸器の取り外しをせまったことが明かされた。

    過去のログを見ていると、「事故の後兄弟のからだはぐしゃぐしゃで、更に双子であるため判別がつかず、胸のほくろのあるなしで(ハビエルにだけ胸にほくろがある)、リカルドの彼女が判別した」といった記事もいたましかった。

    その他の記事としては、オチョア兄弟の親友が彼らと直前まで一緒に走っていたものの、オチョア兄弟だけが、あと1周することにしたため、事故に遇ったことが判明。運命とはなんぞや、と考えさせられる。

    ケルメ時代の無二の親友JP ロドリゲスが彼らの事故現場を通ったアンダルシアのレースで優勝したこと。ケルメがオチョア支援に乗り出したこと。去年夏にはアテネのパラリンピックに向かう姿などなど、多くのニュースがあった。


  • 速報 : オチョア銀メダル(3000m 個人追い抜き) (2004.09.20)

    やはり英国のケニー・ダーレンが強かった。オチョアが予選で塗り替えた世界新記録を、ダーレンが決勝戦で更に塗り替えた。タイムは3分46秒260。オチョアの世界新記録は1日だけだったが、それでもピストは彼の得意ではない。よくやった。

    ちなみに、彼のレース前インタビューをじっくり読んだ。(いつか掲載します。)ロードがやはり得意なので、24日のレースを見て欲しい、と。ただ、今回ロードはITTとの抱き合わせになっており、自分にはやや不利だろうと


  • 速報 : ハビエル・オチョア 金メダルに向け、まずは初日ロードで首位に (2004.09.25)

    今年のパラインピックロードはロードレースとロードITTの組み合わせでメダルが決まる。オチョアは、ITTの方との組み合わせは自分にとって不利だと言っていたが、まずはとりあえず24日のロードでトップに立った。ライバルはピストで敗れた英国のダーレン・ケニー。35秒差で迫っている。

    24日、男子個人ロードレース(カテゴリー:脳性麻痺CP3)に出場したJ・オチョア。行程36km。彼は何度も何度もアタックを仕掛けた。20日のトラック追い抜きで惜しくもケニーに破れ、金メダルを取れなかったリベンジだ。しかし、ケニーはオチョアを徹底的にマーク。

    そして、チャンスは最後の区間で訪れた。アタック成功。他のライバルをみんな置き去りにして単独でゴール。1時間1分1秒のタイムで優勝した。2位〜4位までは同タイムで、1時間1分36秒だった。最終的なメダルの色は月曜日のITT(10km)で決定する。

    ちなみに彼の人生が映画化されたが(タイトルは「ファイナル・スプリント」)、この映画には彼がツール2000のオタカムステージで155kmを逃げ切って優勝してから、翌年の事故で苦しむまでが描かれているそうだ。

go to page top

このオチョア関連の記事については、スペインのWebサイトを総合して書いています。主なソースはMarcaとAS、更にバスク地方の新聞として、correodigitalなど。


mas ciclismo homeニュース(最新版)へ