mas ciclismo .... ツールドフランス 2003 生中継 * − フォト&コメント
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ツールドフランス 2003 総集編 (完結編) - 各ステージの優勝者について
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第12ステージ / 第13ステージ / 第14ステージ / 第15ステージ / 休息日 / 第16ステージ / 第17ステージ / 第18ステージ / 第19ステージ / 第20ステージ / 総集編 1 USP ITT & Lance / 総集編 2 Other USP boys / 総集編 3 Other USP boys / 優勝者総まとめ(今はここ) /


総集編(全て拡大版つき)
7月18日:第12ステージ
Gaillac - Cap' Decouverte 48.5 キロ ITT

写真は
ポーのスタート地点にて。

ウルリッヒ:
身長 183cm、体重 72kg
94年テレコムでプロ入り

ウルリッヒ

優勝者 − ヤン・ウルリッヒ(チーム ビアンキ、29歳): 全ては恩師を切り捨てたところから始まった。

そもそもウルリッヒが今年コーストなどというチームに移籍したわけ:

2003年コーストはトラブル山積だった。でもこれは2003年に始まったことではない。もともとチームの経営自体かなり怪しいところがあっし、一部の選手たちから前年2002年の給与問題で糾弾されていた。なのになぜ、そんなチームにヤンは入ったのか?

確かにテレコムから決別声明を出した後、彼にはオファー殺到した。クイックステップ、コフィディス、メルカトーネ、フォナック。ところが、どのチームも最低限のお金で広告塔として彼を利用しようとしていた。

無理もない。2002年1月21日のカタールツアーを最後に15ヶ月もレースに出ていないウルリッヒは、どのチームにとっても未知数だったからだ。しかし、29歳で自分を安売りするつもりはない。一番高く買ってくれるチームを選んだ。

現監督ののペフェナヘ氏がいなかったらウルリッヒのツール出場はなかった:

チームコーストの給与未払い問題は、既にご承知の通り。その後、紆余曲折ありながらもビアンキとうい最適なスポンサーを見つけられたのは、ペフェナヘ氏がいたおかげだった。

ペフェナヘ氏は、その幅広い人脈を頼りに元オランダチャンピオンのハネグラーフ氏(現在は通信会社のトップ)と接触し、チームビアンキ設立に奔走した。こうして19年のブランクを経て、ビアンキが再び自転車チームのスポンサーとなることになった。(ペフェナヘ氏:テレコム時代からウルリッヒの守護神で、テレコムをやめてヤンと一緒にコーストに来た。コースト時代はヤンのマネージャーとして奔走。)

人間関係を完全に絶つ。時に冷徹な指導。 :

ウルリッヒには、12歳の時に才能を見出してくれたペーター・ベッカーという恩師がいた。彼がトレーナーとしてヤンを指導してきたが、ペフェナヘ氏は、これがヤンをダメにすると見ていた。

ベッカー氏の哲学は、もはや最新式のトレーニング方法とは相容れない。ヤンはベッカー氏を魂の師と仰いでいたが、この関係をペフェナヘ氏は断ち切った。また、雑音から逃れるために、ヤンをスイスに移住させたのもペフェナヘ氏だ

。更に、これだけでは不十分と、冬の間はトスカーナ地方でわざわざトレーニングしたのも彼の仕業だ。しかし、これがすごい効き目を生んだ。押し付けられた過度なトレーニングから自分のペースのトレーニングに切り替えたことにより、やがてウルリッヒは、従来よりももっとしなやかなぺダリングをこの時身につけたのだった。

ウルリッヒ ITTの日:

そして、いよいよ第12ステージのITTの日。ウルリッヒが最後にITTで優勝したのは、2001年世界選手権(リスボン)だ。更にツールのITTで優勝したのは1998年第20ステージまで遡る。その時アームストロングはツールには出場していなかった。(その代わりヴエルタに出場。)

自転車ショップに急遽セットされたホームトレーナーでウルリッヒはウォームアップ。外は38度、地面は61度という猛暑の日だった。アームストロングに1分36秒という驚異的なタイム差をつけられた秘訣は何か?

「僕はあの時何の戦略も考えずに、今までやってきたことを出し切ることだけを考えて走った。」とウルリッヒは語った。

チームメートが語るウルリッヒ:

ツールの直前、ビッグマットからビアンキに移籍してきたベテラン、ガルシア・カサスがウルリッヒを語った。(ちなみに彼の経歴は、アルティアチ(92-95)、フェスティナ(96−2001)、ビッグマット(2002)、2003年途中からビアンキ。)

「ウルリッヒは、朝のブリーフィングでも、口出ししたりは絶対にしない。監督の言うことを、ただ静かに聞いているだけだよ。ペフェナヘ監督が、全てプランを立てて、みんなそれに従う。レース中も、ウルリッヒは余り要求はしないんだ。やれ水、やれシロップ、やれコカコーラをくれ、なんていう風な要求は余りしないね。

普段物静かだけど、アシストたちのことを尊重してくれている。いつも僕らの仕事に、感謝の念を示すのを忘れない人さ。わがままは言わず、落ち着いた雰囲気が、周囲にも伝染していく感じ。やっぱりこういうところは、偉大なチャンピオンの資質があるな、って感じるよ。」


7月23日:第16ステージ
Pau - Bayonne 197.5キロ

写真は
バニエールドビゴールにて。

ハミルトン:
身長 172cm、体重 62kg
95年モントゴメリーベルでプロ入り

ハミルトン

優勝者 − タイラー・ハミルトン(CSC、32歳): 子供時代からの特技は「苦しむこと」。

ジロでも骨折しながら完走。食いしばった歯を11本治療。:

第1ステージで鎖骨を骨折しながら走り続け、見事総合4位になったハミルトン。骨折しながらグランツールを完走したのは、これが初めてではない。ジロ2002の第5ステージで、スプリントの最中に後輪のトラブルですごい勢いでクラッシュした。

ハンドルにしたたか肩をぶつけたが、すぐに立ち上がってレースを続行。その日9位でゴールした。しかしこの時、彼は左肩の小さい骨を骨折していたのが後で判明した。その2日後、雨の下りで、彼は再び落車。それでもジロで総合2位になった。

この怪我のせいで彼は夜、痛みに苦しみ歯を食いしばる日々が続いた。おかげでレース後に歯医者で11本、痛んだ歯を治療する羽目になった。

彼の今年のツール日記に、「歯を食いしばりすぎたから、また歯医者のお世話になりそう」と書かれていたのは、前年のジロの後の経験があったためだ。

苦しみに耐えることは、スキーで学んだ :

彼とランスの共通点は、「苦しむのが得意なこと」だ。ハミルトンは、苦しむことを子供の頃から学んでいた。彼はスキーヤーとして頭角を現していた。夜、凍えながら寒い中リフトに乗った時の苦しみが、今の彼のガッツの源につながっている。大学のスキー部で、華々しいスキーヤーのキャリアが彼を待っていた。

しかし、滑降中にマウンテンバイクに激突し、頚椎2本を骨折。リハビリに医師から自転車を薦められたのがきっかけでこの世界に入った。(面白いことに、スベルディアも怪我で床に伏せっていた時に、母親から薦められた自転車にはまったといういきさつがある。)

観客の声援は。。:

骨折をしながら走っていたとき、どんな風に観客から声援を受けた?という問いに、ハミルトンが答えた。「君はクレージーだぜ!」って言われたと。もっともこれは第12ステージでのインタビュー。

この後彼がパリまで行けそうという雰囲気になったから、この後は観客の声援も変わったことだろうけど。でも、前半のラルプデュエズのステージでは自分でも 果たして完走できるのかわからない中 走っていた。ただただ、途方もないアドレナリンを感じて勢いで走ったという。

また、特に登りでは、ダンシングは痛みが増してなるべくシッティングで行ったと。

レース展開サマリ:

42キロ地点。15人が抜け出す。先頭グループは徐々に減り、103キロ地点でハミルトンが飛び出す。110キロ地点のカテゴリー1級のバガルギー峠をトップで通過。

レッリ、テュルパンらがハミルトンを追ったが、結局彼らはゴール30キロ手前でプロトンにつかまる。しかし、ハミルトンは逃げ切った。2位争いはスプリントでツァベルに決まり。


7月21日:第15ステージ
Bagneres-de-Bigorre - Luz-Ardiden 159.5キロ

写真は、ガイヤックのITT。

ランス:
身長 177cm、体重 72kg
92年モトローラでプロ入り

ランス

優勝者 − ランス・アームストロング(USP、31歳): 今までにない不調

チームメートの顔を直視できない日々:

今回、アームストロングは脱水症状などで暑さにやられていた、ということだったが、問題はそれだけではなかった。本人は、本当の理由については、口を閉ざして詳細を一切明らかにしていないが、監督も「第11ステージあたりから特に ランスの調子が悪いのは傍から見ていてもわかった」、と言っていた。

ランスはその時のことを、こんな風に語った。「夜、みんなが集まる夕食の席では居心地が悪かった。仲間達を前にして、僕は彼らに<大丈夫だよ>と、安心感を全く与えてやれなかったからだ。勝てない時、仲間達の視線が痛かった。」と。

ポーで蘇る :

優勝した第15ステージの前夜、アームストロングはポーに宿泊していた。そのホテルで、彼はチームメートらを前にスピーチをした。「僕は漸くいい手ごたえを感じ始めた。もし、このまま翌朝もそれが続いていたら、十分アタックができると思う」と。

でも、彼がこんなことを言うこと自体、アタックもできないぐらい、体調が悪かったのだ、ということがうかがわれる。そして、翌日(つまり第15ステージ朝)、ヒンカピーは彼が<行ける>、と確信した。「ランスは朝のブリーフィングで微笑んでいた。彼がこういう表情の時は、偉大なるランスが復活したことを意味しているんだ。」

レース1:落車の際ウルリッヒが待っていたのは、2年前のお返し:

アームストロングが観客のミュゼットの紐にハンドルを取られて楽車した時、ウルリッヒは待っていた。それをアームストロングはこう解釈した。「僕はウルリッヒの行動に驚かなかった。

僕だって同じことをしただろう。実際、2年前にウルリッヒがペイルスルドの下りでひどい楽車をした時、僕は他の連中に声をかけたんだ。<落車がひどくて彼がすぐにコースには戻れないのかどうか、判明するまでは加速するな>とね。ウルリッヒはその時のことを覚えてくれたんだろう。うれしいね。」

レース2 :ツールマレではウルリッヒのアタックに乗らず。

ツールマレでウルリッヒが仕掛けたとき、アームストロングは反応しなかった。「ツールマレは上り区間が長い。リュズアルディダンまでの下りと登りも考慮すると動くときではないと思った。

それに彼だけでなく、他にもマヨなどにも、警戒する必要があった。僕は僕のリズムでひたひたと行けばいいと、あせることはなかった。でもウルリッヒはかなり強そうに見えたから、「もしこのまま彼がこのリズムで行けば、ツールを制するのはウルリッヒになりそうだ!」と脅威を感じたという。

ランス 一番思い出に残るステージ優勝は。。

しかし、今回のステージ優勝以上に、一番感慨深いステージ優勝がある、ときっぱり彼は断言した。「95年リモージュの区間優勝に勝る優勝はない。あの時の感動と胸にこみ上げた思いは忘れがたいし、一生忘れないだろう。

ゴール直後は余りにも疲れていて、喜びにひたる暇がなかったが、後にも先にもあれほど感動したゴールはない。」95年リモージュのゴール。そう、それは彼のツール初優勝ではなかった。(93年にも区間優勝している。)

ただ、同僚のファビオ・カザルデッリがレース中に亡くなって、ランスは空高く指で天国にいるカザルデッリに優勝の報告をしたのだった。

レース展開サマリ:

開始42キロ。シャヴァネル(BLB)とボテロ(TEL)が飛び出した。94キロ地点では後続のチャウレアウに6分45秒、プロトンに9分10秒の差をつけた。

ツールマレ山頂手前13キロ。ボテロがちぎれた。山頂8キロ手前、後方のプロトンから、マヨとサストレが飛び出す。ウルリッヒ、アームストロング、スベルディアたちがが2番手グループを形成。ヴィノクロフはいったん脱落。更にウルリッヒが加速し、一旦ランスはやや遅れる。

ラスト10キロでマヨがアタック。

アームストロングとウルリッヒが続く。しかし直後にアームストロングがマヨを巻き込み楽車。更にこの後アームストロングはペダルから足がはずれ、危うく楽車寸前。アクロバット的身のこなしでなんとかそのままレース続行。ハミルトンが、「ランスが戻るまでアタックするな」、と2番手グループにいた選手たちを制する。

ラスト9キロ。マヨが再びアタック。

アームストロングが反応。今度はウルリッヒが遅れる。ヴィノクロフも完全に脱落。アームストロングとウルリッヒの差は開く。ラスト4.5キロでアームストロングがシャヴァネルを追い越す。結局、アームストロングがトップでゴール。

マヨ、ウルリッヒ、スベルディアは40秒遅れ。シャヴァネルは2分47秒遅れの10位に。これでアームストロングとウルリッヒの総合タイムの差は1分7秒差になった。


7月24日:第17ステージ
Dax - Bordeaux 181キロ

写真は、ポーのスタート地点。

クナーヴン:
身長 178cm、体重 73kg
93年TVMでプロ入り

クナーヴン

優勝者 − セルヴァイス・クナーフェン(クイックステップ、32歳): 0kmからのアタック。

2001年パリ・ルーベの勝者:

2001年にパリ・ルーベで優勝し、それまで以上に期待されたが、以降大爆発することはなかったクナーフェン。しかし本人は、「僕は年間15勝とかできるようなライダーじゃない。でもコンスタントに走ることができる。」と冷静に語った。

チーム監督のルフェーヴル氏は、今年のツールの構成をヴィランク中心に組み立てたが、それでも機会さえあれば、アシストたちにもそれ相応の報いが行くように配慮した。クナーヴンがスピードマンで、単独でゴールを目指す資質があることを熟知し、この日はクナーヴンに花を持たせることを考えた。

クイックステップはイケイケ :

今回のツール、ヴィランクがモルジーヌで優勝。イエロージャージも着た。クナーヴンもステージ優勝した。更にヴィランクは山岳賞もものにした。クイックステップにとっては満足のツールだった。

このイケイケムードの延長上で、監督は考えた。ステージレースで勝てるメンバーを集めようと。ワンデイレース中心のチームから、もっと守備範囲を広げようと。その結果が、今回のデュフォー獲得とメルカドとの交渉につながった。

交渉はツールの最中から始まっていた。ツールの最中、ヴィランクとデュフォーは会う度に互いを激励。友情の深さが伝わっていた。デュフォー獲得には、ヴィランクの後押しがあったろう。(2004年からデュフォーはクイックステップで走る。)

180キロを逃げ切る:

レース開始後1キロも満たないところでアタックがかかった。クナーヴンのほか、マンジャン、クラン、ガルシアアコスタ、パラ、ラタサ、フィノ、ファンボン、デフロート、コメッソ、ボッソーニ、ルッテンベルガーらが逃げた。

彼らは結局プロトンに捕まることはなかった。しかし、163キロ地点でクナーヴンがひとりで出た。クナーヴンはパリ・ルーベで優勝した時をイメージしながら走った。飛び出すのがちょっと早すぎたかもしれないが、とにかくスプリントでは勝ち目がなかった

。そして頭の中で計算した。「時速50キロで走れば、いけるだろう。もしもそれで僕を捕らえようとすると、後続の9人は、よほど息の合った先頭交代をしなくてはならないはずだ」、と。

オランダを思いながら走る :

クナーヴンは区間優勝したあと、こう語った。「今回のステージはフラットで、まるで自分の故郷オランダを走っているかのようだった。」と。


7月26日:第19ステージ
Pornic - Nantes 49km ITT

写真は、ガイヤックのITT。

ミラー:
身長 191cm、体重 77kg
97年コフィディスでプロ入り

ミラー

優勝者 − デイヴィッド・ミラー(コフィディス、26歳): 最後の個人TTで遂に優勝。

プロローグのメカトラはトラウマだった:

初日のプロローグ。ゴール手前でチェーンが外れ、大幅にタイムロスしたミラー。結果、1000分の8秒差でFDJのブラドリー・マギーに敗れた。

メカトラさえなければ優勝していたのに。。このショックは、心の中に閉まっていたけど、実はツールの間中、彼の心をずっと支配し続けていた。実は内心随分苦しんでいた。

最初のITTは気管支炎の発作でうまく走れず :

第12ステージのITTでは、トップのウルリッヒから3分55秒遅れの7位。彼にしては不甲斐ない成績だった。でも、これには事情があった。実は気管支炎に陥った。最初の計測ポイントでトップだったものの、その後激しい咳の発作に見舞われた。発作はレース中3度起こり、途中咳で走れなくなった。

特にこの日は日中38度まで温度が上昇し、乾いた気候がミラーの気管支炎を増長させたのだろう。路面温度は61度だった。あえいだのはミラーだけでない。アームストロングもしかり。

ウォームアップでは大型扇風機を2台使用し、水をがぶがぶ飲んで、スポンジで水をかぶった。しかし、レース開始2キロ地点で、既に喉が渇いた。そして脱水症状。冷房の効いた自転車店でウォームアップしたウルリッヒに完敗し、アームストロングは1分36秒遅れという今まで経験したことない大敗を喫した。

ナントのITTで落車 :

第19ステージのITT。ITTはこれで最後だ。ラスト6キロで落車した。メカニックのニコラがチェーンをなおしてくれ、再び走り出した。これで20秒はロスした。でもパニックにはならなかった。でも、優勝は無理かもしれない、そう思った。ただ、前日から体調が元に戻っていたから、気力は充実していた。

走り終えたミラーは、とりあえず暫定トップに立った。しかし、プロローグのことがあっただけに、彼はまた悪夢が繰り返すのではないかと恐れた。チームカーの中で、TV画面が見れなかった。「再度失望するのは耐えられない」と。とにかくいても立ってもいられず、トイレに行ったり水をガバ飲みして、気を紛らわせていた。

そう、アームストロングが走り終えるまで、優勝は確信できなかった。

コフィディスの車中にはCSCのハミルトンもいた。友人のミラーとともに、自分の成績を待っていた。コフィディスの監督が、妻からの報告を携帯電話で受けた。 「本当か?」そう言って、監督はミラーと抱き合った。そう、ミラーのステージ優勝が告げられたのだった。


7月25日:第18ステージ
Bordeaux - Saint-Maixent-l'Ecole

写真は、優勝当日ボルドーを
スタートした直後のラストラス。
この僅か4時間余り後に
彼は見事優勝する。

ラストラス:
身長183cm、体重71kg
98年バネストでプロ入り

ラストラス

優勝者 − パブロ・ラストラス(バネスト、27歳): ダクルーズ、ナルデッロとのゴールスプリントを制して優勝

鍵は食糧補給と母の後押しだった:

ゴールの時、そして、ステージ優勝後の表彰台で指を 高く天に突き上げた。万感迫る気迫があった。丁度4ヶ月前に癌で母が急逝した。余りにあっけなくて、茫然自失の日々を送った後のツール出場だった。

このステージでは飛び出したものの、疲れてもうくたくただっ た。もう無理かと思った。でも、食糧補給と補水をしたら少し元気になっ た。ゴール手前50メートル。スプリント勝負になった。ラストで、母が 背中を押してくれた、そんな気がした。

区間優勝を狙ったわけ :

第11ステージで優勝した同僚 のフレチャが、ラストラスに区間優勝を狙うことを薦めた。「なんてったって 100周年記念のツールだぜ。優勝を上げておけば、名前が歴史に残る」と。

平均時速49.938キロ:ところで、今回の記録平均時速 49.938キロはツール史上2番目に最速となった。今まで2番目だった記録、現USP 監督ブリュイネール氏があげた49.417キロを上回った。

このおかげで、ゴール予 定時刻よりも40分も速くプロトンがゴールしてしまった。最速記録は99年にチッポリーニがマークした時速50.355。

4大ツールを制覇したラストラスは、全てが苦手なオールラウ ンダー:

スペインでは、3大ツールに加えて、ポルトガルツアーも重要 視されており、ラストラスは、これら全ての4大ツールで勝っているのだ。

2001、2002年のツールドポルトガルのTTでステージ優勝、2001年ジロ第11ステー ジ優勝、2002年ヴエルタの第9、11ステージ優勝、そしてツール2003の第18ス テージ。彼は一体何のスペシャリストなのか問われて、こう答えた。

「難しい質 問だけど、オールラウンダーかな。」と。理由がとても面白い。「だって僕は全 てにおいて下手くそだから。上り下りもだめ、スプリント系もだめ。オールラウ ンドにどれも苦手な選手なんだ。」と。

怪我の日々:

97年鎖骨骨折、98年右の半月板を手術。98年肩の骨折、99年大腿骨骨折、2000年左の半月板手術年、2001年脊骨骨折に肋骨骨折、その2ヵ月後に再び半月板の手術と、怪我に泣いた日々もあった。

レース展開サマリ:

61キロ地点でラストラスを含む16人が飛び出した。ラスト7キロ、ゴールスプリントで勝ち目がないカニャダがアタック。

ラストラス、ダクルーズ、ナルデッロよりも50mのリードを保つ。ラスト250m、カニャダが捕まった。ダクルーズ有利と思われたが、ラスト2mでラストラスが前へ躍り出た。カニャダは4位。悔しいけど、同国人のラストラスが優勝したのが、せめてもの救いだ、と述べた。

(上記情報・データは、期間中のレキップ紙より。)


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